【ひとの轍(わだち):あらすじ】

主人公の青年のもとへ、五年前に別れた彼女から不可解な手紙が届く。
投函日は数日前なのに、書かれていた内容は五年前に書かれたとしか思えないものだった。彼女は何故、時を巻き戻して手紙を送りつけたのだろうか。
それをきっかけに彼は自分をみつめようと南の国へ旅立つ。そこで彼は一人の初老の男に出会う。彼はその男との共同生活の中でゆるやかな時間を過ごし、自分が考えるべきことの意味を再認識して行く。
幼い頃、彼は古い連子窓のついた部屋の中で、外から幾本にも分散されて差し込んで来る夏の暑い陽射しを眺めて育った。大人になるに連れてその大切にしていた記憶から連れ出された彼は、自分自身が知らない間に躰に無駄なものをたくさんくくりつけ、多くの大切なものを失っていたことに気付く。他人の目の中で生きるのではなく、自分自身の足で歩かなければならない。彼は自分自身に回帰するためにも過去を振り返らなければならなかった。
彼はまだ別れた彼女から歩き出せないでいた。自分の中ではもう二度と彼女と会うことは無いと確信しながらも、何処かで自分を取り戻す為に彼女の今を知りたいと望んでいる。そして彼女がどのようにして今日まで生きて来たかということが知りたかった。自分と離れた後、如何にして歩きつづけてきたかということを。
彼女から届いた手紙は現在を指しているのか、それとも過去を語っているのか、その意味を探りながら、彼は自分の心の中の窪んだ穴に何らかの意味を詰め込もうとすべてのことを振り返り始める。彼女と手を振った時間にさかのぼり、彼は少しずつ自分の行き場所を探し始める。
五年前に別れた彼女からの手紙、南の国での初老の男との出会い、そして現在触れあうことの出来る仲間と新しい仕事に打ち込むことが、相互作用して思わぬ方向へ向かって行く。
己のアイデンティティー模索から、人と人との関わり方を追求した青年の物語。

 

「ひとの轍(わだち)」

(プロローグ)

埃を吸った夏が好きだった。
遠い昔、僕がまだ子供だった頃のことだ。夏の暑い陽射しが明かりの消えた部屋の中に射し込む時、決まって僕は一人で部屋の片隅に膝を伸ばして座り、足首に降りてくる光をいつまでもじっと眺めていた。
茶色い格子から入り込んで来る白い光は、それまで見えなかった部屋中の埃を含み薄く濁りながらキラキラと輝き始める。透明である筈の光がまるで生き物のように揺らめきながら舞い降りる。温められた硝子製のビーカーの中を泳ぐインクのように、上から下へ、下から上へ、白い埃はスローモーションのように光の中へ顔を出し、そして消えて行く。僕はその埃を含んだ夏の光が気に入っていた。
僕はまだ小さく、誰かに側に居てもらわないと生きて行くことが出来なかったけれど、暗い部屋の中で冷たい畳の上にじっとうずくまり、背中を壁にもたれたまま連子窓から射し込む陽射しをいつまでも待っていた。そして細い木枠の隙間を抜けてやがて白い光が射し込むと、僕は誰の力も借りずその幾本にも引かれた光の線の中に自分の足を滑り込ませた。夏の陽射しは僕の足首に均一に連子窓の影を引き、不均一に躰を暖めてゆく。僕の躰は一番遠い部分に意識が集中し始める。やがて足首から膝にかけて血が熱を持ち、僕は自分から一番遠いところで生命を意識する。でも、壁にもたれた背中や手首や頬はまだ冷たい暗闇に同化したまま動かない。決して外の暑い夏に溶け込むことはない。僕は自分の足首だけに夏を感じ、そのやるせない程に暖められた優しい感触をいつまでも楽しんでいた。

1706号室は夕刻の都心の景色を眺めるには打ってつけの部屋だった。窓の正面からではなくやや左側から西陽が当たる。僕はホテル最上階のラウンジではなく、いつもこのダブルの部屋に米井さんを呼んだ。アルコールを入れながらより、誰の邪魔もないところで淡々と事を運んだほうが良い。いつもと同じだ。何も特別なことはしない。ゆっくりと暮れかかるオレンジ色の街を眺めながら仕事を進める。たわいもない冗談を話し煙草の煙を燻らせながら、少しの間現実から逃避する。その時間に見知らぬ他人の声は要らない。
入り口の横の壁には僕の描いた絵が飾ってある。何かの配慮のつもりか、ホテルのフロント係のチーフがわざわざ僕が泊まりに来るときに飾ってくれる。いつもは違った誰かの絵を飾っているのに。でも、僕はチェックアウトするまでその自分の絵を外してクローゼットの中に放り込む。好きでもないものをわざわざ飾って欲しくはない。
僕は約束の午後四時までベッドに横になり少しの間微睡んだ。時計の針は午後三時を指していた。ほんの一時間、ほんの少しだけ眠ろう、オレンジ色の光がこの部屋を満たすまで、それまでゆっくり息を潜めようと、僕は俯せにベッドに沈み込んだ。
「あなたと出会ったことで私は満足なの」
夢の中でミルが言った。
「誰もがみんな人から好かれたいと思ってる。でも私はあなたに好かれようとは思わない。もし好きになってくれるのならそれは嬉しいけれど、でもその前に私はあなたと出会ったことだけで満足なの。あなたと知り合い、あなたを好きになったという事実に私は満足なの」
背筋を伸ばし、キリッとした目で僕を睨むようにミルは言った。
「あなたは私に人を好きになるという感情を与えてくれた。あなたと出会わなければそんな気持ちは生まれてなかった。だからそれだけで私は満足して生きて行ける」
僕は、そう言って少し微笑んだミルの顔を覗き込んだ。
夕刻の光は銀杏の葉の間からミルの顔を照らしていた。揺れる葉の影の所為なのか彼女の唇は震えているように見えた。木洩れ陽は彼女の全身を包んでいた。灰色のアスファルトの上に微かにミルの香りがした。
通りの向こうに小さな花屋があった。色とりどりの季節がショウウィンドの中で咲き乱れていた。でも、行き交う人は誰もそれに気付かず自分の足元だけを見つめて歩いていた。綺麗な花には目もくれず、ただ黙々と歩いていた。
ミルは僕の前からくるりと背を向けると、空を仰ぐように銀杏の木を見上げた。黄色がかった葉が何処かからの風を受けてカサカサと乾いた葉擦れの音をたてた。
「ありがとうって言ったほうが良いのかな」
僕は目の前に立っているミルに向かって聞いた。彼女は両手を広げ暖かい陽の光を抱きしめているように見えた。
「今は、まだいい」
そう言うと、ミルは眩しそうに両手の指でその光を遮った。

たぶん、六回目のチャイムで僕は目を覚ました。覗き穴から外を伺うと米井さんが困惑した表情でチャイムを押し続けている。
「ああ、ごめんなさい。少し眠っていたみたいで」
僕はドアを開けながら腕時計を見た。丁度午後四時になったばかりだった。時間通りだ。
「今日で間違いありませんよね」
米井さんは部屋に入ると、手提げ鞄を窓際の丸いテーブルの上に置きながら心配そうに僕の様子を伺った。
「いや、ホントにちょっと眠っていただけで、何もありませんよ。大丈夫、約束は今日です」
「それならいいんですけど、いつもなら一回のチャイムで出られるから」
「僕も人の子ですよ、いつも機械みたいに同じじゃない」
彼女は薄いピンクのワンピースに白いカーディガンを羽織っていた。首から下げたネックレスとイヤリングが同じ貝殻の形をしている。
「わたし、てっきり何かあったんじゃないかって」
「まさか、締め切りに追われているわけでもないし、逃げ隠れしませんよ。それに今日に限ってそんなことはしないでしょう」
僕は笑いながら彼女に椅子を勧めた。そしてルームサービスでオレンジペコを頼んだ。
「今日で終わりって淋しいですね」
彼女は窓際に立ち、硝子に手をつきながら遠くに霞む都心の街並みを眺めている。散り散りの雲から漏れる夕陽が疎らな影を落としていた。子供が塗り間違ったように街は歪な色をしていた。
「この景色も今日が見納めですね」
「また来れば良いじゃないですか」
僕は米井さんのイヤリングを見ていた。ショートカットの髪から覗く小さな貝殻はとても綺麗だった。
彼女は窓際から離れマホガニーの椅子に座ると、深く背もたれにもたれながら鞄を膝の上に置いた。そして中から分厚い封筒を取り出して言った。
「ここで毎月眺めるから良いんです。決まった時刻に決まった部屋で」
「それなら来月も来ればいいじゃないですか」
僕は逆光になった彼女の耳をまだ見ていた。小さな貝殻は揺れながら時々彼女の髪に見え隠れした。
「人も大事なんです」
「人?」
「ええ、別に良いですけど」
彼女は少しはにかんだように笑い、それじゃ仕事を始めましょうと、分厚い封筒を開けた。中には真新しいハトロン紙で包まれた写真集が入っていた。
「やっと刷り上がりました。良い出来ですよ」
米井さんは僕にその刷り上がったばかりの写真集を手渡した。
僕は彼女からその分厚い画集を受取ると彼女の向かいの椅子に座り、丹念に一ページ一ページ確かめるように見ていった。世界中の景色が四季折々の色で描かれている。ミコノス島の風車、オークランドの橋、ロングアイランドの街並み、キーウェストの廃屋、僕がこの三年間に描いた作品がそこにあった。
「あらためて集めてみると良いもんですね、手前味噌だけれど」
「ええ、毎月ポスターや雑誌の表紙に描いてもらっていたのを集めてみると、また違った感じがしてわたしもすごく気に入っています」
「色々とありがとう」
「いいえ、これが仕事ですから。でも、この後すぐ発たれるんですか」
今日がこの仕事の最後の日だった。出版社に勤める彼女に対しては今日が最後の担当になる。僕は今の仕事に一段落がついたので暫く南の国へ出掛ける予定だった。
「色々と調べたいことがあって、しばらくは充電期間ってところです。勿論、また沢山の絵を描いてきます。一週間後には日本を発つ予定です。無理ばかり言ってすみません」
「いいえ、謝らないで下さい。いつもご無理を申し上げていたのはこちらの方なんですから」
米井さんは両手を膝の上に置いて頭を下げた。サラっとした前髪が揺れ彼女の形の良い眉毛を隠した。
ドアをノックする音が聞こえ、ルームサービスが運ばれて来た。彼女は、じゃぁわたしがと席を立ち、ベッドの脇をすり抜けてワゴンを取りに出た。そして陶器製のポットに熱い湯を注ぎながら、
「帰国をしたとたんに浮気をして、どこか他の出版社に作品を描くってことはしないでくださいよ」
と、悪戯っぽく笑いながら言った。
「そんなに器用じゃないですよ」
僕は熱い紅茶を受取り、ポケットから皺くちゃの煙草を取り出し火を点けた。
暫く、今までやってきた仕事の話をした。僕の個展に彼女がふらっと観にやって来て、彼女の出版社が出す月刊誌の表紙を描くようになったこと、イベントのポスターを任され、それがきっかけで色んな会社から制作の依頼を受けるようになったこと、すべての取っ掛かりは彼女だった。彼女は大学を出たばかりの駆け出しだった。でも、僕の担当を初めての仕事としてこなし僕を売り出すことで力をつけた。僕も彼女のお陰でイラストを描いて生活が出来るようになった。
「ホント、米井さんには感謝しています」
「そんなこと言わないで下さい。わたしだって三年もお付き合いさせて頂いてやっと会社から少しは役に立つようになってきたなって言われるようになったんですから。お礼を言うのはこちらの方です」
「ようやく大人の女性に見られるようになったってことですね」
「それってどういう意味です?」
別に大した意味はないですよと、僕は笑いながら答え、少し睨むようにこっちを見た彼女の綺麗な二重の目を見つめた。彼女の目は出会った頃とは違う色香のある瞳をしていた。
彼女は僕から目線を外し、丸い背もたれのついた椅子からおもむろに立ち上がると、外の景色を眺める為に窓際に振り向いた。
「ホントに今日で最後なんですね」
米井さんは窓越しに遙か遠くに流れる雲を眺めているようだった。足早に暮れかかる空にはいくつかの星が見えた。
またいつか。彼女は消え入りそうな声で小さく呟いた。
「またいつか、私が担当の本を出してください」
「ええ、機会があれば」
僕は彼女が担当になってからの自分の作品のことを思い返し、機会があれば本当にまた彼女に担当になって貰いたいとそう思った。
彼女はこちらにくるりと振り返るとにっこりと笑い、
「たくさん充電して来て下さいね」
そう言うと、空になった茶色い封筒を鞄の中にしまい、肩から下げるとぺこりと頭を下げて出口へ向かった。
「今までどうもありがとう」
僕は早足に急ぐ彼女の後ろ姿に慌てて声を掛けた。他に掛ける言葉をとっさには思いつかなかった。
彼女は振り返りもせずそのままドアを開けて出ていった。ゆっくりとドアは閉まり、彼女の微かな香水の香りだけが残った。僕はその閉まったドアをいつまでも眺めていた。そこには細い躰に綺麗に貼り付いた薄いピンク色のワンピースの残像が映っていた。
僕はテーブルから写真集を取り上げると胸に抱えたままベッドに横になった。そして枕元にあるすべてのスイッチを消した。窓の外はうっすらと暗くなり、綺麗なオレンジ色の光は何処かに消え失せていた。硝子を通り越して入り込んで来るものは月明かりの他には何もなく、部屋の中は薄暗く濁っていた。
テーブルの上にぼんやりと浮かぶティーカップは飲み干されて空っぽになっていた。縁のところにかすかに付いた紅茶の汚れはまるで僕の思い出みたいに見えた。それは消えて無くなりそうで、小さく薄くこびり付いていた。
僕は四角く区切られた部屋の中で暗く距離の掴めない天井をじっと見上た。そこには見えるものが何も無かった。手に届くものが何一つ無かった。
僕は目を閉じ、心の中に暑い夏を想像した。そして懐かしい眩しくて真っ白な光を想った。

(1)

11月。地球の裏側ではこれからが夏になる。
ようやく陽が上り始めたばかりの朝、ファームス入江を見下ろす岬に、僕は一人で座っていた。 幅が五十センチ以上はある茶色く塗られたガードレールの上に腰を下ろし、両足を湾側に放り出して、ただ漠然と対岸の橋を見ていた。両手はその幅広くて厚い石造りのガードレールの上に、背中の後ろ側に自分を支えるようにつき、そこにもたれるようにして僕はポツンと海を眺めていた。
岬から見下ろすその世界は形容し難い程鮮やかな蒼色をしていて、波を揺らす水面は時に深い碧色に変色し、高く抜けるような空には疎らな雲がゆっくりと動きながらその巨大な姿を浮かべていた。空気は全く湿気を含んでいないかのように乾燥していて、僕に見えるもの感じるものには何もフィルターが掛かっていなかった。そこには何処までも澄み切った原色の暑い夏が見えるだけだった。
僕は白いTシャツと薄汚れたブルージーンズといったありきたりの格好でそのガードレールの上に座り、足元から次々と吹き上げて来る風をしっかりと感じ取りながら、誰に目立つこともなく出来ることならこのままこの乾いた時の中に隠れていたいと思っていた。出来るならば、声を潜め何ものにも心を預けずにそっと一人でこの世界の中に溶け込んでいたいとそう願っていた。小さく躰を丸めてそこにうずくまり、何もしないで時が流れて行くのを黙って見ていたかった。僕自身が僕の足を自分の力で動かせるようになるまで。
僕はある事からずっと長い間逃げていた。それについて何か答えを出さなければならないのは分かっているのにその事を考えることを避けていた。答えを出す前に問題を理解すること自体を避けていた。それは僕にとってはとても重要なことだけれど、僕自身その問いかけに対してどう対処していいのか分からなかったからだ。でも、いつかそのずっと先送りにして来た事をちゃんと考える必要があったし、たっぷりと時間を掛けながら考えなくてはならないということが分かっていた。それでも僕は、それをずっと今迄後回しにして来た。それは誰かが背中を押してくれるのを待っているのではなく、僕自身でその準備をしなければならないということも知っているにも拘わらず。僕は分かっていることや気が付いていることに見て見ぬ振りをして、いったいいつその大事なことをこの手で取り上げるのか、まるで他人事のようにいつまでもただもうじっと遠い風景を眺めているだけだった。いつか気持ちに整理がつき一つ一つ解きほぐすことが出来るように、そっと音をたてず、変わり行く景色に同化するのを待ち続けていた。

僕は毎日、陽が昇り始めて暫くするとこの岬にやって来る。王位植物園のあまりにも広すぎる緑の囲いに辟易しながら、あまり魅力を感じない数組のハイカー達をやり過ごし、灰色にくたびれて曲がった道を一人で登って来る。
その道はお世辞にも平坦とは言えないやけに中央が盛り上がった道路で、風によるものなのか乾いた細かい砂を両端に追いやって、歩道との境目が分からなくなっていた。その道路を挟んだ海との反対側には、芝生の上に緑鮮やかな名前も知らない木々が時々思い付いたようなばらばらな間隔で立ち並んでいて、やがてやって来る強い陽射しを覚悟しながらも、まだ薄くて長い影を朝露の残る芝生の上に落としていた。 そしてやがて陽が昇り、白い陽射しがつくる黒い影が僕のクツのサイズと同じ大きさになる前に、僕は歩いてこの坂を登って来る。汗をかきながら、ただ一目散にというわけではないけれど、でもとにかく岬の先に少しでも早く辿り着こうとそれだけを考えながら。
勿論、急いで坂を登るなんてことはせずに、時々は寄り道をしながら王位植物園に寝そべって色んな人を観るのも悪くない。この公園には毎日通う人も多いし、植物園を抜けて博物館や美術館、州立図書館に足を延ばす事だって可能だ。ただその場合は車が必要になるわけだけれど。とにかく緑の芝生に寝そべって行き交う老夫婦のデートを眺めるのも好いし、若いファミリーの笑顔を眺めるのは時としてとても気持ちがいい。それは結婚をしていない僕にとっては未知の世界のことでもあるわけだし。それに、足の長い草を背に高い空を見上げていたって良いものだと思う。実際、思った以上に静かなところだし、スケッチをする人やベンチで語り合う人もいるし、少し足を延ばしてキング・エドワード像を待ち合わせ場所に使う学生のカップルもいる。首輪を外して駆け回る飼い犬を捕まえようと、汗だくで走り回る人もいるだろうし、自家製のランチをひろげて、口いっぱいにホットドッグを頬ばる子供たちもいるだろう。
たまには坂を登るのを止めて、誰もが休日にそうするように時には彼らに混じって同じ様な時を過ごすのも良いかも知れない。或る意味では何処もおかしくない何の変哲もない普通の一日を過ごせるからだ。でも僕は、そういったものに興味を惹かれる前に岬のカーブに腰を下ろそうと、いつも一人先を急いだ。 何が嫌で、何を望んでいるのか、何が我慢出来ずに、何を避けているのか、心の隅っこではちゃんと分かっている。僕はただ、誰かが僕に話しかけて僕からたっぷりと時間を盗んでゆくことが堪らなく嫌だったし、懐かしいものや暖かいものを見せつけられるのが煩わしかったんだ。まだ、僕にはそういったものの中に埋もれていく心づもりが出来ていなかったし、優しいものの中に降りていく自信がなかった。僕はいつも彼らの暖かい会話や笑顔を横目で見ながらとても羨ましく思い、それは本当に素敵だと思っていた。でもそれを感じれば感じるほど、逆に僕は自分がいったい何処へ向かうのかだんだん分からなくなってくる。まるで鼠花火がくるくると回り続けるみたいに。そして最後に自分の知らない場所でパチン。弾けて終わりだ。僕はそうなる前に自分の落ち着く場所に早く向かいたかった。

目当てとする岬は、その突端を円いカーブ状のガードレールで保護されていて、そこからは観光名所のようにパノラマの景色を楽しむことが出来た。遙か彼方を走る名も知らない大きな帆船が見え、それを浮かべる深い海と、その海を蒼く染める限りない大空を追い続けることが出来た。そしてあまりにも広大なその世界の中、見下ろす入江には色とりどりのボートが毎日のように出ているのを眺めることが出来た。赤やオレンジ色の帆の下で日焼けを好む人達が思い思いのポーズで休日を過ごしている。彼らが見上げる空からは、彼らの誰もが望んだ夏が少しも容赦することなく真っ直ぐ舞い降りて、何処までも深く冷たい海の表面を少しずつ蒸発させていた。そこには小さな白波がいくつか現れては隠れ、揺れる水面が銀色に輝いてはまた暗く消えて行った。
僕は、丁度岬のカーブを撫でるような格好で出来た茶色い柵の上に座り、それを見ていた。そのガードレールは僕にとって腰掛けるにはとてもぴったりのサイズだったし、誰にも邪魔をされることなく色んな事を考えるには都合が良かった。僕はクツを脱いで裸足になり、とても静かな時間と、とても緩やかな空間の中を覗こうとしていた。目の前に広がる色つきの無声映画の中を彷徨って、揺蕩う世界へゆっくり潜り込みたいと思っていた。現実から離れたった一人だけの静寂の世界の中に・・・。
僕はジーンズの前ポケットから折れ曲がった煙草を取り出し、風を手で除けるようにして火を点けた。そして息深く吸い込んだ後、空に顎を突き出して煙を吐き出した。白い煙は頭上ですぐに拡がり、僕の期待をよそに目の前で円を描くこともなく消えていった。乾いた午後は裸足になった僕の指先を温めて、汐の香りのする風が耳元まで這い上がって来ては白いTシャツの袖を揺らした。
僕の目の前には、ベネロング岬越しのオペラハウスがいつもより鈍色に光って見えた。
僕は少しずつではあるけれど穏やかな気持ちを感じ始めていた。でもすぐにやり切れない気持ちになる。いつだってそうだ。少しは良くなっても、すぐ元に戻ってしまう。僕には考えなければならないことがたくさんあるんだ。安らかな覚醒は長く続かない。誰も居ない澄んだ湖の底に長く潜り続けることは不可能だ。僕は何にも集中することが出来なくなり、何かを考えるという作業がとても難しいことのように感じた。僕は自分を取り囲む現実の世界にもう一度目を向けようとし、そしてそこから届く見えるもの聞こえるものの全てを、自分なりに精一杯受け入れようと試みた。現実を意識することで僕は現実離れした自分の心の中を覗くことが出来るような気がしたからだ。でもそこには殻を被った僕自身が小さくうずくまり、現実の虚無を一つ一つ千切っては捨てている姿があるだけで、何一つ僕の意識を呼び覚ますものがなかった。ただ目に映るものを被写体として捉えているだけで、そこからきっかけとしては何も始まらない。
僕は知らない間に、ボートに居た何人かが嬌声を上げて海に飛び込むのを見ていた。深い蒼色をした海に数々の波紋が拡がっている。跳ねた水飛沫が散らばり、それはまるでダイアモンドのようにキラキラと輝いて綺麗だった。でも僕はその綺麗な風景にひとつも感動することなく、それを無意識の内に眺めていたに過ぎなかった。ボートより少し離れた先の方に仲間らしいひとりが裸で泳いでいる。彼がいたずらに飛び込んだのをきっかけにグループの何人かがつられて飛び込んだらしい。誰もが心からその瞬間を楽しんでいるように見えた。デッキの上では残った何人かが手を振り騒いでいる。シャンパンらしきものを掛け合うもの、浮き輪を投げ込むもの、それぞれが明確に、誰も彼もが何の陰りもない笑顔をしていた。その上を、一羽の鳥がつまらなさそうに飛んでいた。銀色のマストの少し上の辺りを、海猫だろうか白い鳥がゆっくりと飛んでいた。たった一羽のその鳥は、騒ぎたてる若者達をまるであざ笑うかのように大きく旋回し、円を描くようにいつまでも彼らの頭上を回り続けていた。
目的が何かあったわけじゃない。決められた理由で僕がそこにいたわけじゃない。誰かに会うとか、何かをするといった特別の約束なんて何ひとつなかった。ただ何となくそこに居るのが当たり前のように、道路を挟んだ芝生の上のベンチみたいに、何となくそこにある、という感じでその岬に座っていたかった。一日中、ただ普通に、そこにいたかったんだ。僕自身の時間の中でたったひとつ、あることを考える為だけに。そこに腰を下ろしてじっとしていることで全てが上手く片づくと期待しながら。

僕は、ガードレールの上に両膝を上げ砂のついた手のひらをはたくと、躰の向きを変えてもう一度煙草を深く喫った。吐き出された煙は今度は僕の後ろからの風に乗り、曲がりくねった坂を滑って行った。煙の消えた坂を暫く眺めていると、入れ代わりに白いTシャツを着た中年の男がマラソンよろしく駆け上がってくるのが見えた。
男はよく日焼けした顔をうつ伏せに、歯を食いしばって足を動かしている。影のある樹木の下側を走るのではなく、陽のあたる道路の海側を必至に走り続けている。そして、岬からの景色を横目で眺めることもなく黙々と自分の足元だけを見ていた。
僕はその男を少し冷めた気持ちで、或いは安っぽい好奇心を持って眺めていた。
彼の黒いショートパンツは流れる汗で太股にぴったりと貼り付き、透けたTシャツも贅肉の削げ落ちた躰にへばり付いていた。裸足で履いたランニングシューズも流れる汗で濁った色をしていた。たぶん鮮やかな黄色のラインがついているはずなのに、それはまるで湿った土のような色をしていた。
彼は苦しい顔をしながら坂を登ってきたが、カーブの手前で僕に気付くと口元を弛め、灰色混じりの顎髭を右手でひと掴みすると、擦れ違いざまにその手のひらを僕のほうへ返し軽く上げて微笑んだ。そしてまた彼は全身を機械的に動かし一定のリズムを崩すことなく、繰り返し足を出し手を動かし続けた。流れ落ちる汗は未練があるかのように少しの間彼の躰にしがみついていたが、それでも結局は振り落とされていった。彼は新しい空気を吸い、古臭くなった過去を捨てながら、少しもスピードを緩めることなくカーブの向こう側へ走り去って行った。
それはほんの僅かな時間のことだったけれど、僕にはスローモーションを見ているようにとてもゆっくり鮮明に見えた。男は栗色の毛を流れる汗でぐしゃぐしゃにし、シミの多い腕をリズミカルに振りながら通り過ぎて行った。僕は肌色に透けたTシャツが彼の躰に貼り付いているみたいに、ずっとその男の背中を見ていた。そして彼が僕の目の前を通り過ぎる時に言った言葉を、ずっと追いかけていた。
彼は、「ネクスト」と言った。それもウィンクをしながらね。

(2)

リックと出会ってから、何となく体調がいい。彼がマラソン愛好家で、僕の食事にも気を遣ってくれるということに、多少はその影響があるのかもしれない。割と崩しがちであった躰の具合はここのところ問題を起こさない。彼が自然を相手に暮らしていることに、僕の躰もどこか同調しているのだろう。
僕はリックに借りた二階にある自分の部屋のベッドから上半身だけを起こし、手を伸ばして東向きの窓を開けた。白灰色の木窓は入り込む風にかすかに揺れキィィと乾いた音を出した。窓の向こうはまだ朝靄の残る冷たい空気の世界で、薄紫色の町が四角く縁取られたガラス越しに見える。
「グッド・モーニング」
リックが、薄汚れたドアを開けて覗き込むようにして言った。
「よく眠れたかい?」
「お早う。今日も最高のお目覚めだよ」
と、僕は子供がよくそうするように両手を頭の上に伸ばし、背伸びをしながら言った。
「下に朝食の用意が出来ている。適当に食べてくれ」
リックは片手に分厚いバインダーファイルを持ち、日焼け除けのストローハットを被りながら言った。
「あんたの好きな目玉焼きって言ったっけ、あれも用意しといた」
「いつもわるいね」
「いや、そんなことはいい。一人分も二人分も用意する手間はかわらないから。それよりも今日は遅くなりそうだ。夕メシは勝手にやってくれ」
「分かった。適当に掃除させて貰うよ」
僕はベッドから降り、洗いたてのTシャツを被りながらリックに聞いた。
「それで今日の客は遠いのかい?」
「いや、いつものコースさ。ただ最後はホテル迄送らなけりゃならない」
とリックはそう言うと、行ってくるよと片手を上げ足早に下りて行った。
暫くすると一階のガレージから白いフォードのエンジン音が聞こえて来た。グルグルグルと、擦れた音を出している。それはまるで老人がうがいをしているようにも聞こえた。
僕は部屋から出ると軋む廊下を南側の突き当たりまで行き、階段の横の窓からストローハットを被った男に気をつけてと、声を掛けた。
リックは、フォードの運転席から頭を出し僕の方を見上げると、ニヤッと笑った後、ミルクが切れてた、買っといてくれと、大声で言い、陽が昇る方角へとその白い老人をゆっくり走らせて行った。彼が出て行った後には白い砂利で出来た空間が、一本のユーカリの樹の下にポッカリと広がっていた。
リックの車を追いかけて、彼が向かって行った方向へと遙か遠くを望んだ。二階の窓から見下ろす町はようやく朝の陽光を受け、深い眠りから徐々に目覚めようとしていた。生まれたばかりの光が浅い覚醒の空気の中に拡がって、あらゆるものに少しずつ色を塗り始めている。そして、一度目覚めた光は確実に町を現実の世界へと呼び起こし、僕の目の前で全てのものが鮮やかな顔を取り戻し始めていた。
ガレージの横で、影を広げたユーカリの樹がみるみる淡い緑色を浮かびあがらせて、枝に散りばめられた小さな葉がカサカサと優しく葉擦れの音を立てた。道向かいの黄色く塗られた看板には「さわやかにいこう!」の文字が青く大きく並び、アルファベットの「X」を四つ並べたアルミの缶からは泡を含んだ液体が噴き出すように描かれていた。僕の視界に入るあらゆるものが、一滴の濁りもなく原色に輝き始めていた。
僕は抜けるような高い青空を仰ぎ、今日一日のことを考えた。今日はどんな日になるのだろう。何処へ行き、何をし、何処に辿り着いて、そしてどれくらいのものを忘れることができるのだろうか、と。
出来るならば良い絵を描こう。何も考えずただ目に映り感動したままを描けば良い。自分が気持ち良いと思えるならそれだけで良い。
ヒュッと鋭い風が僕の頭の上をかすめ、インコに似た白い小さな鳥が僕の目の前、遙か遠くに見える尖った屋根を目指して飛んで行った。
僕は小さな空咳を一つすると、リックの作ってくれた朝食を採ろうと階段を下りて食堂へ向かった。

食堂は、男の一人住まいが概ねそうであるようにお世辞にもきれいだとは言えなかった。南向きに面したところにキッチンがある。斜めに傾いたシンクと一つはガスの出ない三つ又のコンロ、モーター音がうるさいゼネラル製の大型冷蔵庫、ナショナルの簡易ジューサーミキサー、煤で汚れたオーブン、それぞれがリックと暮らした長い生活の軌跡を残している。
シンクの右隣、西側の窓辺に沿って置いてあるすっかり年代物のスパイスボックスの木壁には、陽に灼けた古いカレンダーがピンで留められてある。大きな数字が並ぶ日付の上にはバイクを走らせるイージーライダーの写真。風に髪をなびかせてアメリカンバイクに跨っている。紙で出来たイージーライダーは恍惚の表情をして、その視線は写真から抜け出し、この部屋の中央のテーブルを挟んで反対側のカップボードを見つめていた。そこにはもう何年も使っていない花柄の円い皿がいくつも重ねられて置いてある。
木製のカップボードの扉には開け閉めの時に出来たたくさんのキズが付いていて、そのひとつひとつのキズにはリックの想い出が詰まっているのだろう。その扉の真ん中に、リックの家族の写真が一枚だけ糊で貼ってあった。セピア色に色褪せたそのカラー写真には、まだ若い彼とかわいらしい小柄な女の子が肩を寄せ合い写っていた。
僕はクルミの一枚板で出来たテーブルに座り、リックが作ってくれた朝食を食べた。広いテーブルにポツンと向かい、硬くなったパンを千切って焼きたての目玉焼きを囓った。こんな食べ方はこっちにはないよと、リックは言ったけれど、今ではすっかりお気に入りになっているみたいだ。目玉から出てくる半熟にショウユを垂らすのは堪えられないねと、彼は大袈裟に笑ってそう言った。
テーブル越しに見える南向きの窓の袂は出窓状になっていて、シンクの縁からずっと薄黄緑色のタイルが貼ってある。その上に野の花が一輪、ガラス製のビアグラスに飾ってある。リックが毎朝出掛ける前に差し替えていくもので、唯一この家の中で暖かいものだからと、彼はそれを日課にしていた。名前はよく知らない。でも透明のビアグラスの中で、その黄色い花はあまりにも美しく、そして安らかな温もりを僕に放っていた。
僕は少しずつではあるけれど解放され始めている自分に気付き、少しずつそうさせてくれるリックのことを考えた。
リックは、観光客相手のツアーコンダクターを職業としていた。客層の国籍は問わないが、最近は専ら日本人が多いらしい。オンシーズンは勿論、オフでも関係なしに大挙して来るのは日本人だけらしい。彼は、ツアー会社からの依頼でオプショナルパッケージの担当を受け持っていた。ツアーパックの中で色々な観光スポットを車で回るやつだ。
彼はツアー会社から客のスケジュールを受け取ると待ち合わせの場所まで出向き、少し大袈裟な仕草でその日の客を出迎えた。彼は決して時間に遅れることはなく、観光客を不安にさせることなどこれっぽっちもしなかった。リックは、彼らの重い荷物を車のトランクに詰め込むとカタログに載っているコースを巡り、それぞれの客層に合ったジョークを話しながら自分の国の歴史を語った。何処に誰がいつ歴史を作り、それが何の為にいつ壊されたのか、誰が誰の為に生まれ、そして誰の為に涙を流したのか、落ち着いた口調で、時には早口で、リックは分かり易くあらゆる人々に話をした。
彼は、人見知りをしない性格と、勿論そうであってはこの職業は成り立たないわけだけれど、それに大柄な体躯の割には人なつこい顔、誰かれ関係なしに笑わせるとびきりの才能を持ち、ツアー客にウケが良かった。彼らはすぐにリックと親しくなった。でも、そのおかげで何人かの心許ないツアー客がありったけの我が儘を言ったことがあった。決められたツアーコースとは関係なしに自分勝手なコースを希望し、又、待ち合わせの時間を遙かオーバーしても買い物を続けることもあった。それでもリックは自分の感情や体調に関係なくニッコリと笑い、誰にでも楽しいツアーであることを望んだ。そしてどんな客もランチタイムには安くてうまい地元の店を紹介し、ディナーにはガイドブックにも載っていない洒落た店に連れて行った。
きっと、好きなんだろうと思う。自分の国を誇りに思うのと同じくらいに、人を愛することが好きなんだろう。本当のところはよく分からないけれど、僕の知っている限り、リックはそういう人間なんだろうと思う。
あの日、僕が初めてリックと出会った時もそうだった。彼は苦しそうな顔をしながら坂を登って来たにも拘わらず、僕を見かけたとたんに何も苦しいことはないような振りをしてニッコリと笑った。そしてそれから時折僕たちはあの坂のカーブで出会い、少しずつ言葉を交わすようになった。ある時、リックは突然僕の横に走り寄って来ては立ち止まり、自分の名前を名乗った後、僕の名前を尋ねた。そしていきなり僕の吸いかけの煙草を奪い取り、何年か振りだと言っては美味しそうにその辛い煙草を喫った。僕が何も言わずにただ驚いていると、彼はおもむろにクツを脱いでガードレールに上がって来ては、僕と同じように膝を抱えて座り込んだ。それから長い時間、彼は僕の横に並んで何も言わずただ黙って流れて行く雲を見ていた。肩が触れ合う程近くに並び、僕には何も語りかけずにその静まり返った時間を受け止めていた。
僕は唖然としたまま、暫くリックの横顔を眺めていた。夏の光はリックの顔を他のものと同じように真っ白に染めていたが、その中で彼の瞳はとても綺麗に見えた。彼はまるで涙を流した後のように美しく澄んだ蒼い瞳をしていて、いつまでも遠く流れて行く雲をじっと見つめていた。僕はその時、彼の皺だらけの横顔を眺めながら、何の前触れもなく、もしかするとこの男に僕は救われるのかも知れないと、そう思った。

僕は、朝食の皿をシンクに片づけ、コーヒーを煎れる為にポットに湯を沸かした。そして茶色いカップボードから一組のカップを取り出し、リックが使ったまま置いていったネルで熱いコーヒーを注いだ。
くすんだ磁器製の器から立ちのぼる湯気は白く湿っていて、焦げた豆の香りと共に僕をそっと包んでくれる。指先から僕の腕を通り越し、首の後ろを回って背中の辺りを抜け、そして足首にかけて流れていった後、ついには全身を優しく包んでくれる。
僕は、触れないほど熱いその小さな入れ物をそっとテーブルの端の方へ置き、円い背もたれのついた椅子に膝を抱えて座り直してから、ゆっくりと右手でカップを持ち上げて、こぼさないようにしてその熱い液体をすすった。苦い香りは僕の喉元を通り過ぎ全身を隈無く巡り始める。そして僕は目を細めてシンクの上の窓に飾ってある黄色い小さな花をじっと見つめていた。僕はゆったりとした気持ちを持ち、コーヒーカップをもう一度テーブルに置いた後、両手でしっかりと曲げた膝を抱え込んだ。そして唇を膝につけ小さく丸まるようにしてそっと目を閉じた。
どの位かは分からないけれど、美しい花や香りのいいお茶に覚醒作用があるなら、僕をじっとこのまま固めて欲しいと思った。目を覚まさせることなく、永遠に白い霧の中に匿って欲しいと思った。やがて僕は遠い日、まだ子供の頃に見たあの暑い夏の陽射しの中に、ゆっくりとそして確実に戻って行く。

(3)

「君のたなごころに無限を、そしてひとときのうちに永遠をとらえる」
リックが言った。
「えっ、何だい?」
僕は夕食の後の汚れた皿をキッチンで洗い、朝食用のライチをソフトフリージングしようとその濡れた皿を拭いているところだった。僕は振り返り突然話し掛けてきたリックの方を覗いた。リックはリビングの片隅にあるソファーに深々と腰掛けながら何かの本を見ている。
「無心のまえぶれ、ってやつだよ」
「何だいそれ?」
「いや、詩だよ、ウィリアム・ブレイクのね」
「詩?」
「そう、ブレイクの詩集なんだよ、これ。この中の一節に『無心のまえぶれ』ってやつがあって、それを今度使うつもりだ」
リックは見ているページの間に人差し指を入れ、完全に詩集を閉じないようにしながら立ち上がり、テーブルに置いてあった飲みかけのフォーエックスを飲み干した。そして反対の手に持った詩集を僕の方へ向けて振って見せた。
僕はリックの少し自慢げな顔を見ながら、よく熟れたライチを硝子製の丸い皿の上に並べた。
「また凝った問題を考えるもんだね」
「ホント、大したもんだろう」
リックは笑いながら、俺は天才かもしれないなと、少しアルコールに酔った赤い顔を僕に見せている。彼は暫くその詩集を眺めた後、小さく頷くと、人差し指を入れてあった部分に適当な紙片を挟みしっかりとしたB六版の詩集を閉じた。そして、テーブルの上にその生成色の本を置くと、もう一本飲むかなと、僕の返事を待たずにキッチンに入って来た。冷蔵庫を開け、ビールと一緒に何か摘めるものはないかと物色している。
リックは観光客相手のツアーの最中、自分で考えた色々な話を客に聞かせて楽しませていた。色々といってもお堅い経済情報や色気付いたゴシップ話などはしない。その時々の客の年齢に合わせたいかにも実話らしい歴史話が中心だ。全くの嘘ではないが、全くの事実だけでもない。その時々の季節や月毎に、何の関連性もない題材を結びつけて、客がいかにも納得するように巧妙に作られたもっともらしい話だ。リックは何処で調べて来るのかはわからないけれど、その月毎に異なった題材をみごとなまでにひとつの教訓めいた話に創り上げていた。巷で流行っているイタリア料理のキノコは実は何百年も前からヨーロッパでは毒素として知られていたことがわかり、ルイ○○世が滅んだのはその延々と摂取した毒素に宿る歴史的な運命によるものなのだ、といった具合で、彼によると実際のところは全くの嘘であるにも関わらず、最もらしい時代の事実をちょっぴり加えてやると、いかにも本物らしく後部座席に座る客は受け取るらしい。最初は客も薄々ハッタリだとは感じるものの、ひょっとしたらといった自信のなさが次第には腰を浮かしながらリックの話に耳を傾けるそうだ。僕にもその話をして欲しいと頼んだことはあるが、リックは決して僕にそんな話をしてくれない。あんたは最初から信用して聞かないから駄目だ、というのが理由らしい。たぶん、今回思いついた題材が、ウィリアム・ブレイクの『無心のまえぶれ』なんだろう。
リックは冷蔵庫からブルーチーズを取り出すと、代わりに僕の手からライチの並んだ皿を奪い、空いた棚の上に仕舞った。そして僕の分のビールも抱えながらニヤけた顔で言った。
「今度はちょっとしたオジさんたちを驚かしてやろうかな」
「何か良い案が浮かんだのかい?」
「今までは純粋な青年たちだったからな。今回は平和な中年たちに勉強してもらおう」
リックはくっくっと笑いながら、僕に水滴のついた缶ビールを手渡すとまた茶色いソファーに深々と腰掛け、乾杯といった仕草で自分のビールを天井へ向けて掲げた。

時間は夜中の一時を回った頃だろうか、窓を叩く虫の姿が見えなくなっていた。四角く区切られた木枠の向こうは真っ黒で何も見えない。僕はプルリングを起こし茶色い液体を喉に流し込んだ。そして埃の溜まった窓の向こう側に目を凝らした。そこには僕自身の顔が映っているだけで他には何も見えなかった。僕と向き合っている硝子の向こうの自分は短いボサボサの髪の毛をして途方に暮れたように突っ立ったままこっちを見ていた。僕はシンクの上のタイルにフォーエックスの缶を置き、ポケットから皺くちゃの煙草を取り出して火を点けた。そして汗くさいカーキ色のTシャツを着た窓の向こうの男に煙を吹きかけた。白い煙は汚れた硝子窓にぶつかり、そこを通り越すこともなくゆっくりと四方に消えていった。暗闇の中の男は表情一つ変えず、まだこっちを見ていた。岸に打ち上げられた魚のように、乾いた目をして。

「何か考えはまとまったのかい?」
僕の背中越しにリックの声がした。
「何だ、眠ってたんじゃなかったの?」
僕は振り向いてリックに向かって煙草を放り渡した。
「静かにしていたからって何も眠ってたわけじゃないんだぜ。ちゃんとお勉強してたんだよ。俺にも想像力ってもんがあるんだ」
リックは右手の人差し指を自分の頭の横へ持って行き、こんこんと叩いて見せた。
「で、これからどうするんだい?」
「いや、何も考えがまとまらない。スタートラインから一歩も前へ行かないよ」
僕は半分残った気の抜けたビールをシンクに流し、横にあるプラスチック製のゴミ箱に投げ捨てた。そして苦いコーヒーが飲みたくなったのでパーコレーターを火に掛けた。
「飲むかい?」
「いや、俺はいい」
リックは煙草の皺を伸ばし火を点けると天井に向かってふうっと煙を長く吐いた。
「実際のところ、この国へ来てあんたは良かったのかい?」
「まあね。何もしないよりはマシだよ」
僕はパーコレーターの上に付いている透明の窓を見ていた。沸騰した水が徐々に茶色くなってきていた。ネルで入れるコーヒーとはまた違った味わいがある。
「でも、悩みはなにも解決していないじゃないか。解決どころかより複雑になっている感じに見えるけどね」
「表面的にはね。でも、ここでこれからのことをちゃんと考えないといけない。それは分かってる」
「ちゃんとね」
「ああ、ちゃんと。今更だけどね」
リックは深い溜息とともに白い煙を吐き出し短くなった煙草をテーブルの上の貝殻の形をした灰皿で揉み消した。そして、もう寝るよと、ソファーから立ち上がり僕の傍を通り過ぎて行った。
「明日は早いのかい?」
僕はリックの背中に向かって聞いた。
「いや、いつもと同じだ。何の変化もない、何も変わらない同じ一日だ」
そう言うと、彼は振り返りもせず、片手を上げて暗い部屋の中へ消えて行った。

パーコレーターは既に真っ黒な液体をその小さな窓に覗かせていた。僕はレンジの火を止め少し大きめのマグカップにコーヒーを注いだ。焦げた豆の匂いがした。僕はテーブルまでマグカップを運び、クルミで出来た椅子に膝を抱えて座った。そしてもう一度焦げたコーヒーの香りを嗅いだ。一口そっと口に含んだあとテーブルの向こう側の黒い窓に目をやった。シンクの上の窓からは僕と同じ格好をした野暮ったい男がまたこっちを見ていた。僕は彼に向かって声を掛けた。
「それでいいんだよな」
コーヒーから立ち上る湯気は僕とその男の間をゆらゆらと泳いでは消えていった。湯気が消えた向こうで、窓に映ったもう一人の僕はこっちを見据えたまま何も答えなかった。ただ真っ直ぐに僕の目を見つめているだけだった。僕は小さく首を振りテーブルの上の明かりを消した。

(4)

次の日、僕は初めてあの岬に行かなかった。描き始めた作品を早く仕上げたいと思ったこともあるけれど、それよりも、いつもの時間にクツを履きいつものコースを通って歩いて行くことに、何故か興味が持てなかったからだ。確かに僕にはミルについて考えなければならないことがあったし、その為にはあの岬で自分自身の時間を探す必要があった。でも心の何処かでいつもと同じ結果になることが分かっていて、無意識の内にそれを避けていたのかも知れない。僕が何故この遠い国まで来たのか、何を忘れようとし、或いは何を思い出し何を守ろうとしているのか、僕は決められた場所に通うことで、そのことについて落ち着いて考えられると思っていた。でも何ひとつ考えることが出来なかった。
僕は真面目にそれを考えることに疲れ始めていたのかも知れない。或いは、場所を変えることで少しは考えることが出来ると、そう思いたかったからかも知れない。
僕はガレージの横の納屋から真っ赤な自転車を引っぱり出し、ついでにブリキのバケツと先の細くなったブラシを取り出して、その錆ついた車体を洗った。ホースから飛び散る冷たい水を辺り一面に撒き散らし、僕は全身をビショ濡れにしながらも上機嫌で自転車を洗った。リムからスポークの一本一本まで、とにかく一生懸命に丁寧に洗った。別にリックに誉めて貰おうとか、そんなつもりはない。ただ久しぶりに何となくそうしようと思っただけだ。ひとつ自転車でも洗おうかといった気晴らし程度のつもりが、何故か嬉しくなって僕は時がたつのも忘れてそれに集中していた。
何時間たっただろうか、僕はその真っ赤な自転車を生き返らせる作業をあらかた終わらせると、それをガレージ横の郵便受けに立て掛け、冷たいビールを取りに一度家の中に戻った。そして壁のように大きなゼネラル製の冷蔵庫からフォーエックスを二缶取り出すと、描き掛けの作品と絵の具を抱えて、もう一度庭に出た。そして側のユーカリの樹の下にイーゼルを立たせ、その前に腰掛けてキラキラと輝く真っ赤な自転車を暫くの間眺めていた。水に濡れた金属の塊はその滴にあらゆる光を反射させて、まるで宝石をあしらったように懸命に輝いていた。僕は今が夏であるということを実感し、木陰の中から静かにその暑い季節を楽しもうと思った。
ユーカリの樹の下で、僕はフォーエックスを飲みながら、一遍の小説を読むように静かにキャンバスに色を塗り重ねていった。そして描き疲れると時々は顔を上げ、目の前の眩しい風景を眺めていた。木陰の中にいると、その外にいる時よりもずっとその外の世界のことが分かる気がする。明るい向こうからはこっち側は見えないけれど、暗いこっち側からは全てが見える。

・・・埃に覆われた茶色い格子の中と同じように・・・

僕は汚れたパレットと筆を足元に置き、薄暗い木陰の中に肘をついて寝ころんだ。そして耳を澄まし、目を凝らして、僕に語りかけてくるものをじっと待った。見上げる空にはたったひとつだけ、白い雲が動くこともなく静かに浮かんでいた。

昔、雲だけを写真に撮っていたことがある。
何処か遠い旅行をした時に記念に残したというのではなく、普段の生活の中で雲ばかりを狙ってシャッターを押していた。いつも鞄の中にカメラを忍ばせていては、気の向くままに撮りまくっていた。それは、時には家の前から見える何の変哲もない薄暗い雨雲であったり、電車の窓から見える細い鰯雲であったりした。暑い季節には白く厚く浮かぶものも、冬には薄く濁って全てのものを覆い隠していた。空に浮かぶその水の塊は、たった一つだけで流れて行くこともあれば、真っ赤に色を変えて何処までも連なって流れて行くこともあった。
僕は決して手が届くことはないその変幻自在な塊に魅せられ、いつまでもそれを追いかけていた。毎日のように空を見上げ、少しでも昨日とは違った雲を探してはフィルムに収めていた。レンズを真上に向け、奥行きに焦点が合わない程の青空を見ていると、時々現実の存在を忘れることがあった。何処にいるのかがわからなくなり、常識的な尺度がつかめなくなった。高い煙突に目を向けてもそれがどれ位の高さなのか見当もつかない。そして灰色の瓦屋根は高い空の下であまりにも非現実的に見えた。それは精巧に造られたミニチュアのようで、誰かがその上からヌっと顔を出して今にも僕もろとも押し潰すんじゃないだろうかと錯覚したりした。
でも、僕はそんな小さな錯乱がとても好きだった。色や形を変える雲を見上げ、少しも飽きることなくいつまでも限りない時間を費やしていた。
それは、僕がまだ学生の頃のことで、単純に写真を撮る他に絵を描く為のエスキースも兼ねていた。結果として約三百点余りにも及ぶ雲は勿論題材として取り上げることが多かった。僕にとってそれは雲を描くという行為自体と、それよりもむしろ自分の色を作り出す上でとても参考になった。毎日同じ顔を見せない姿が僕に創造力を与えてくれた。僕は長い時間その塊を見上げる間に、自分自身を個人として認識し、そして自分自身を確認することが出来た。決して他人と比べることなく、自分自身をちゃんと把握することが出来た。自分の存在価値を想うことが出来た。
ミルと出会ったのは丁度その頃だ。卒業を次の春に控えたその年の夏、いやもう夏の終わり頃だったと思う。いつまでも蜩の鳴く声が聞こえていたのを覚えている。カナカナカナとそれはとても淋しく聞こえ、いつまでも僕たちを取り囲んでいた。

その年はいつもより暑さが続く季節だった。おかげで毎年のように騒ぐ水不足は当分の間解消されそうもなかった。それは少なからず僕の大学にも影響を与え、田舎のキャンパスでは時間制でしか水道が使えなかった。
僕は茹だるような暑さの中で、いつまでも汚れた水で絵を描いていた。水道が使える時間帯を気にしながら、汚れた水で落ちない筆の汚れをキャンバスの上で落としていた。クーラーも乾燥機も無いゼミはただの四角いコンクリートの部屋で、いくら窓を全開にしようとも風はちっとも入り込んではこなかった。代わりに真っ白な陽射しがその大きな窓から差込み、高い天井と防音材で出来た壁に反射しているだけだった。灰色のコンクリートの床には拭き忘れた絵の具がこびりつき、無造作に捨てられた煙草の吸い殻に混じって鉛筆の削りかすや誰かが破り捨てたノートの切れ端が散乱していた。六十畳程のその空間は眩しい夏の中でいつものように暑く、そしていつもと何ら変わることなく永遠に汚れていた。
僕は水道が使えるまで新しいアクリル絵の具を出すのを止め、汚れた筆を見つめながら半ば諦め気分で自分の作品の前に立った。そして左手で右手の肘を持ち右手の指で自分の顎を触って、暫く作品の行方を考えようとした。
ほんの十秒もしなかっただろうか、僕が憂鬱な気持ちでその絵を眺めようとした時、突然後ろから声がした。
「くせ」
聞き慣れない小さな声はそういうふうに聞こえた。
僕は、うん?と聞き直すように後ろを振り向いた。そこには見覚えのない小柄な女の子が立っていた。
「そうやって顎をつかんで考えるのって癖なんですね」
見知らぬ女の子は僕の顎を指さしニッコリと笑いながら言った。
「さっきから見ていたんですけど、何か考える時は必ずそうするんですね」
彼女はくすくすと笑い、自分も同じように右手で顎を掴んで見せた。彼女は生成のパンツに藤色のタンクトップを着て、肩から小さなカメラを下げていた。
僕は知らない女の子に声を掛けられ、初めは誰のことを言っているのか分からず辺りを見回した。でも、僕の近くには他の誰も居なかった。僕は自分の正面にいる女の子の顔をまじまじと見つめ半信半疑で尋ねた。
「僕に言ったの?」
「はじめまして。こんにちは」
彼女はそう言うとペコリと頭を下げた。頭の後ろで無造作に束ねられた髪が小さく跳ねた。
「こんにちは」
僕はつられて答えた。どうも間違いなく彼女は僕に話し掛けているみたいだ。
「誰か探しているの?」
「いいえ、あなたに話してるんです」
彼女は僕が戸惑っているのを察知して、もう一度頭を下げた。
「驚かせてごめんなさい。別に悪気があったわけじゃないんです。いろんな絵を見ようとこの部屋に入って来たんだけど、その中であなたの絵に目がついちゃって。それでどんな人が描いているのか話掛けようと思ったんだけど、つい顎に手をやる仕草がかわいくって」
「かわいい?」
僕は少しむっとして彼女を睨んだ。
「あっ、ごめんなさい。またやっちゃった」
と、彼女はペロっと舌を出してまたくすくすと笑った。そして僕の脇をすり抜けると、さっきまで僕が座っていたスチール製の丸イスに勝手に腰掛け、僕の絵をじっと覗き込んだ。少し見させて下さいとひとこと言っただけで、彼女はそれからひとことも何も言わず黙ってその大きな画面を見つめ始めた。
そこには想像しうる限りの青色があった。百号のキャンバスに幾十にも青い絵の具が塗り重ねられてあった。ある部分は盛り上がり、ある部分はナイフで削り取られてあった。他の種類の色は全く存在せず、青という単色が何通りにも色数を増しそこに存在していた。彼女はその大きな青の作品の前にきちんと腰掛け、顔を近づけたり手を触れたりしながらも、いつまでも黙って動こうとはしなかった。肩から下げていたカメラを揃えた両膝の上にそっと乗せ、ただ黙々とその一枚の絵と向き合っていた。彼女は黙って頷いたり何度も小さく首を振ったりして、何をためらうこともなくいつまでもじっと僕の絵を見つめていた。
僕は声を掛けるのも忘れてそれを眺めていた。彼女はまるで誰かにそっと話し掛けるように静かにその作品の前で微笑んでいた。その横顔は少しも化粧気がなく、小さく白い首筋には後れ毛が光っていた。
普通は僕以外、いったい何を描いているのか分からないだろう。彼女が何を感じ、何を考えているのかが僕には分からないように。それにしても、いったい彼女は目の前で何を想っているのだろう。僕は少しでも自分が思い描こうとしていたものが彼女に伝わっていればいいのにと、そう思い始めていた。
僕のそんな気持ちが伝わったのかどうかは分からない。でも、僕の前に座っている見知らぬ女の子は突然振り向いてこう言った。
「雲なんですね」
僕はびっくりして、彼女の顔を覗き込んだ。
「どうしてわかるんだい?」
「どうして?」
彼女は不思議そうに僕の方を見上げて言った。
「理由なんてないです。ただそう思ったから。違うんですか?」
「いや、合ってる。でも普通はそうは答えないよ」
「普通?」
また、彼女は怪訝そうにこっちを見た。
「いや、そうじゃなくて、普通絵を見る人は見た通りを答えるか、逆に深読みをして答えるかのどっちかだから。例えば単純に『青』、『青い壁』、『青の重なり』とか、良くて『青い空』、『青い海』、ひどいのは『憂鬱な時』とか、『作品Bにおける空想の逆説』なんて感じかな」
「何ですか、それ?」
彼女は変なものでも見るような目で僕の方を見ていた。
窓の外では、相変わらずカナカナカナと蜩の鳴く声が聞こえていた。
僕は半分バツが悪くなって彼女の視線を避け、自分の作品を見つめながら彼女に話し掛けた。
「結局、誰が何と言おうが、何を感じようが、それはどうでもいいことなんだ。僕自身が何を想っているのかが大事なわけでね」
僕は彼女の後ろから背中越しに続けた。
「でも、君がこの絵を見て『雲』を想像したことには正直びっくりした。描き始めてから誰もそう言ったものはいなかったし、最終的にタイトルにも僕は『雲』なんてつけるつもりはなかったから。だから、僕以外誰もこの絵の本質は見抜けないと思ってたんだ。勿論この先、この作品に雲自体を描くことはしないつもりだしね」
僕は、目の前の小さな背中を見つめていた。自分の描こうとしていたことに気付いてくれたこともあったのだろうけれど、初めて会ったにもかかわらず、彼女のことをとても身近な人のように感じていた。
夕方の傾いた陽射しがキャンバスを見つめる彼女の横顔を照らしていた。彼女の耳には小さなイヤリングが銀色に輝いていた。四角い部屋の天井にはあらゆる物音が反射して、そこにいる僕たちの耳元を通り過ぎた。誰かが筆を洗う音が聞こえ、ナイフでキャンバスを削る音がした。灰色の床の上で汚れたパレットや散らばった絵の具に混じって油の匂いがした。
「どうもありがとうございました。今日はとっても得をした気分です」
彼女の名前はミルと言った。勿論ニックネームだ。小さい頃からそう呼ばれているらしい。彼女は僕と同い年で、僕とは違って写真を勉強しにこの大学に通っていた。初めからプロになろうなんて思ってないんですと、彼女は言った。ただ好きだから、いろんなものを自分の気持ちの枠組みの中で残したくって、そう言うと、両手の指で四角いフレームをつくり、片目を瞑ってその枠の中から僕の顔を見て微笑んだ。
彼女は自分の作品を考える上で色んな景色や静物を探し、時にはイメージを具体化する過程でどういう表現の仕方をするのかデザイン科や美術科の教室を覗き歩いた。その途中で僕のゼミにも立ち寄ったというわけだった。
「また今度遊びに来ていいですか?」
ミルは僕に聞いた。私、雲がとっても好きなんです。そう呟いた彼女の顔を見て、僕は何故か不思議に嬉しくなった。彼女は立ち上がると、また小さくお辞儀をして、それじゃまた、とにっこり微笑んだ後、部屋を出て行った。
僕は、突然の来訪者を部屋の出口までさえ送ることも忘れて、その場で立ち竦んだまま彼女のその小さな後ろ姿を眺めていた。

僕は、ユーカリの樹の下から梢の葉を揺らす風の音を聞きながら、鮮やかに浮かぶ砂利のガレージを見ていた。一つ一つの小石に浮かぶ陽の陰影がはっきりと僕には見えた。夏の色が僕には手に取るように感じられた。何もかもを歪めてしまう季節、すべてのものを覆い尽くす世界を、じっとこの目で見つめていた。
暫くしてから、僕は描き掛けのキャンバスはそのままに、フォーエックスの空き缶と汚れた筆を拾い上げると、木陰の中からゆっくりと這い出した。そして納屋の縁に置いてあったブリキ製のバケツの中にそれらを放り込んで、ピカピカの真っ赤な自転車に乗ってリックからの言付けを片付けにペダルを漕いだ。
町はそろそろ夕刻の中にその姿を塗り替えようとしていた。鮮やかに原色に輝いていた町並みはそろってオレンジ色の空気に覆い被されようとしていた。
僕は自転車のスピードを落とし、躰に流れる緩やかな風を感じ取ろうとしていた。不段は気にもとめずにいるのに、僕の鼻をかすめるその風は何故かいい香りがした。そしてまだ昼の名残のように少し暖かく、そっと包み込むようにしながら、ゆっくりと走る僕の周りを吹き過ぎて行った。
ふと振り向いた道路脇の標識の傍らに灰色に汚れた犬がしゃがんでいた。その太った犬は、一方通行の標識に鎖で繋がれたまま自分の前足を舐めていた。僕は自転車を道路の脇に止め、その薄汚れた大きな犬に向かって、「ワン」と誰にも聞こえないくらいの小さな声で言った。犬は何も気付かないようで、いつまでも自分の足を舐め続けていた。
僕は自分の為のミルクとリックの為のマフィンを買いに、色を失いつつある町の中に向かって、もう一度自転車のペダルを漕ぎ出した。

(5)

夜遅く、リックは疲れた顔をして帰って来た。片手にガイド用のファイルを持ち、もう一方の手でストローハットを持ち日焼けした顔を扇ぎながら。
リックは食堂でビールを飲んでいる僕を見つけると笑いながら言った。
「今日は少し疲れたね」
「やあ、おかえり。今日の客はどうだった?」
僕は、顔の高さまでビールの缶を持ち上げて、リックに飲むかい?と聞く仕草をしながら言った。
「今日もやっぱり日本人かい?」
「いや、今日はアメリカンだった」
リックはテーブルの上にファイルとストローハットを置き、冷蔵庫の中から冷えたビールを取り出すと、プルリングを開けるやいなや一息に半分程を飲んだ。
「でっかい大人が二人。男と女、新婚だったよ。何だってアメリカンていうのはあんなに元気なんだろうね、何を見てもグレート、グレートって大はしゃぎさ」
「リックは、日本人ばかりを見過ぎているんだよ。アメリカ人のそれはいたって普通のことだと思うよ」
僕は笑いながらリックの報告を聞いていた。
「いや、でも今日の客は特別だった。とにかくでっかいんだ、二人とも。バレーかバスケットの選手みたいなカップルが、車の中でも外ででもはしゃいで飛び跳ねるんだ。見ているだけで疲れるよ」
リックは本当に疲れたという風に大袈裟に眉を上げ、もう一度冷蔵庫の中からフォーエックスを二本取り出してテーブルの反対側に腰掛けた。そしてその内の一本を僕の方に差し出し、ほんとうにでっかいんだぜと笑ってみせた。
窓の向こうはすっかり黒い闇に包まれていた。四角いガラスは鏡のように部屋中の全てのものを映していた。その鏡の向こう側から何匹かの虫がコツコツと音をたてて部屋の中に入り込もうとしていた。
僕とリックはいつもより長い時間テーブルに腰掛けて色んな話をした。明日がリックの休みだということもあったのかも知れないけれど、リックは初めて自分の仕事以外の話を僕にした。何故、今独りで暮らしているのか、休みの日にはどうしてあの岬までランニングするのか、自分はどうしてこの土地に来たのか、そしてカップボードに貼ってある写真の女の子は誰なのか、リックはとつとつと僕に語った。いつもより疲れていたのか、それとも少しアルコールに酔っていたのかも知れない。
僕は、リックの優しい目尻を見つめていた。何本もの深い皺がそこにはあった。何年もの間強い陽射しに日焼けした顔は、真顔になってもとても穏やかに見えた。これがこの人の魅力なんだなと、僕は思った。彼の中で彼がいったい何を想っているかは別として、彼を見て誰も彼を悪い人間だと思うものはいないだろう。彼はあまりにも優しすぎる顔をしていた。そのことで誰もが自分にだけ向けてくれる彼の愛情に満足し、誰も彼のことに気付かない。例え彼が自分一人で苦しんでいるとしても。

リックは昔、パイロットだった。今と同じツアー絡みの仕事だったけれど、空中遊覧やツアー客を乗せての曲芸飛行が主な仕事内容だった。
彼は郵便局員の父親を持つ家庭に生まれ、毎日決まった時間に帰って来る父親を見て育った。物心がついた時、他人が敷いたレールの上を何の不満もなく歩き続ける父親の平々凡々とした日常が彼は嫌いだったけれど、彼の母親は家族の為に何も言わず働き続ける夫のことをむしろ誇りに思っていた。リックは表向きは優等生でいつも両親の言う通り勉強をしスポーツをした。両親の言いなりに生きるのは嫌だったけれど、彼は両親が悲しがるほうがもっと堪らなかったからだ。彼は自分の親が望んだ以上の高校へ行き、州で一番の大学へ進学した。両親は自分たちの息子を誇りに思い将来に希望を持った。一流の企業に入り出世して行く姿を想像した。ところがリックは数ある推薦状を全て断り、どの一流企業にも入社しなかった。大勢のマスの中で他人と同じ顔をしながら生きていくことに魅力を感じていなかったから。彼は両親の気持ちを初めて裏切り、反対を押し切って無名の航空会社に入社した。そこは二十名足らずの本当に小さな貨物専用の航空会社で、列車の無い小さな町に週に何度か新しい書籍を運ぶのが業務内容だった。彼は約十年の間そこで荷物の集配を手伝いながらパイロットの免許を取った。小さなセスナの免許だったけれど、自分の手で空を自由に飛べることに感動し、自分の生き甲斐がそこにあると確信した。そして次第にリックはただ本を運ぶだけの仕事で空を飛ぶことに飽き足らず、もっと自由に空を飛び回りたいと思うようになった。
リックはそれから数年後、それまでに貯めた貯金を使い自分で観光客相手の遊覧飛行会社をつくった。大学時代の友人がツアー会社に勤めていたこともあり、仕事は順調に滑り出した。彼はツアー会社が立てたコースや或いは自分で企画したコースを観光客を乗せて飛んだ。リックはそんな毎日が有意義に思えて仕方が無かった。自分は父親のようにはなりたくはなかった、ただ決められたレールの上を走り続けていた父親のようには生きたくはなかった、自分は違うんだ、と毎日そう思っていた。
仕事が順調に軌道に乗り出した頃、リックは何人かのアシスタントを雇った。それまでは営業から機体の整備まで総てを自分一人でこなしていたが、ツアーコースが増え客数も増えてくると何もかもを自分だけで処理するのは限界だった。彼はパイロットの中に一人の女性を雇うことにした。観光客相手の仕事ではパイロットが女性ということはとても良い宣伝効果になるからだ。
彼女は免許を持っていたが、飛行技術に関してはまだまだ素人の域を出ていなかった。でも、とても素直で誰よりも真面目な娘だった。小さい頃から飛行機が好きだったという彼女は名前をイーディと言い、リックに付いて観光パイロットの勉強を毎日夜遅くまでした。イーディは運動神経が良く、記憶力も抜群だった。リックはそんな彼女を早く一人前の操縦士にさせようと、時には厳しく時には包み込むように優しく誉めた。計器の見方から航空法、操縦桿の握り方や無線の応答まで、プロとして、同乗する客に不安感を与えない仕草を教えた。何度も自分の隣に座らせ、何回となく二人でフライトした。イーディはそんなリックの熱意に応え、彼の操作技術や知識を出来る限り吸収しようとした。彼の真剣な横顔を眺め、また彼のとびきりのジョークに心から笑った。彼女はリックを尊敬していた。彼女自身の努力が勿論一番あったに違いないけれど、リックが教えたのが幸いだったのか、彼女は想像以上の早さでリックに次いで二番目の人気飛行機乗りになった。
イーディが一人前のパイロットとしてツアーをアシストするようになった頃、いつからかリックは自分の心の中にあるイーディに対する気持ちが部下以上のものであることに気付き始めていた。最初、彼はそれを否定していたが胸を焦がす想いが大きくなることを止めることは出来なかった。リックは四十歳であり、イーディは二十八歳だった。彼は十二歳も年下の女の子に恋をしていた。彼女のショートカットの髪やハスキーな声が気に入っていた。決してスカートを履かず、男のように手の指を油で真っ黒に汚した彼女が愛しくて堪らなかった。彼は毎日、仕事場で彼女を眺め彼女と話をする度に胸を熱くした。それでもリックは彼女に告白しようとは思っていなかった。彼はあまりにも歳の離れた女の子に自分は相手にされないだろうと勝手に決め込んでいた。彼女には既にその年齢相応の相手がきっといるんだと想像していた。でも、それは大きな間違いだった。それはリックだけが思っていることだった。
ある休日の朝、リックは一人で事務所に出て書類の整理をしていた。季節が移り新しいツアーコースを検討していた。リックはいくら人気があるコースでも季節によって若干の手を加えていた。客は毎回違うから飽きるということはないけれど、季節によって吹く風が違うからだ。観光客に楽しんでもらうのはとても重要だけれど第一条件じゃない。先ずは安全であること。それを何よりリックは重く考えていた。
時間が丁度十二時を回った頃、事務所の木製の扉が開いた。誰かが入って来たようだった。
「申し訳ない。今日は休みなんだ」
リックは書類から目を離さず下に俯いたまま言った。
「明日は朝八時からやってる。悪いが明日出直してくれ」
でも、客人は事務所から出て行こうとしなかった。出て行くどころかカウンターの脇をすり抜け、つかつかとリックが座っているテーブルの隣まで入り込んで来た。
リックは書類を見ている視界の中にスカートから伸びた白い足を見つけ、顔を書類から離しその客人を見上げながら、「だから今日は休みなんだ」と言いかけて口をつぐんだ。
そこには水色のワンピースを着たイーディが立っていた。彼女は胸の前で白い紙包みをゆらゆらと揺すっている。
「お腹空いたでしょう。マフィン買って来ました」
リックは驚いて暫く口が利けなかった。
イーディはお構いなしにリックのテーブルの上を片付け、買って来たばかりのマフィンを包みから出した。そして彼の隣の席に腰掛けると、リックのテーブルの上をコツコツと指で叩いた。
「今日は良い天気ですよ。早く食べて出掛けましょう」
彼女はそう言って、勝手にマフィンの包みを剥がし自分だけ食べ始めた。
「どうしてスカート履いているんだ?」
リックは唾を飲み込み、ようやく口を開いて言った。
「何でこんなところにいるんだ?」
「何でだって良いでしょう。ここは私の職場でもあるんだし。それに私だって女なんだからスカートくらい履くんです」
それが、イーディの作戦だった。
彼女はリックのことが好きだった。飛行技術を学んでいた間、彼女は彼のあらゆる面を見ていた。リックはイーディの為にツアーから戻るとすぐにやって来ては、休む間もなくフライトに連れていった。彼女が熱心にリックの話を聞いている間、リックは決して疲れた顔を見せなかった。そして彼女を教えた後は、また次の日の為にセスナの整備を行った。勿論、仕事の為にリックは自分に良くしてくれているんだとイーディは分かっていた。でもリックの仕事ぶりや、話す言葉、彼の生き様が彼女の心を捉えた。イーディはリックに対して尊敬からすぐに恋愛の感情を持つようになった。
でもイーディも又、まさかリックが自分の事に好意を持ってくれるなんて微塵も思っていなかった。何度も自分は部下だからと諦めようとした。でも諦めようとした気持ちも若いイーディにとっては逆効果で、益々彼女はリックにのめり込んでいった。そして居ても立ってもおられず休日のリックを襲ったというわけだった。

「その時の彼女はとてもキュートだったよ」
リックは、僕に向かってとても嬉しそうに言った。
「何て言ったって初めて彼女のスカート姿を見たんだ。それまでは少年っぽい格好をしてた彼女が、だぜ。もうこっちは腰を抜かしそうに驚いたよ。でもその時、はっきりと分かったんだ。俺はこの子を誰にも渡したくないとね」
「それは彼女も同じだった」
僕はリックに微笑みながら言った。
「ああ。彼女は俺よりも積極的だったよ。着慣れないスカートを履き、一大決心で俺に告白をしようと来たんだから」
「それからはトントン拍子?」
「まあね。何回かデートをした。行き慣れない映画や食事もした。今までに読んだ本の話やどんな子供だったかなんかを長い時間語り合った。とにかく彼女は賢こかった。思っていた以上に大人だったよ。自分で自分のことをちゃんと分かっていた」
「それがあの写真の彼女だね」
僕はカップボードの色褪せた写真を指差しリックに聞いた。
「結婚は考えなかったのかい?」
「勿論考えたさ。お互いにそれを望んでいた」
リックはカップボードの方を向き、昔を懐かしむようにふっと遠くを見つめる目をした。
彼の背中越しには黄色い小さな花が、暗いガラス窓にもたれるようにして微かに揺れて見えた。
「でも、そうはならなかった」
リックは視線を自分の指先に落とし、空になったビールの缶を握り潰した。そして呟くように小さくポツリと言った。
「彼女は、死んだのさ」
「えっ?」
僕は耳に届いた声を疑った。
「雨の日だったんだ。その日は朝からずっと雨が降っていた」
リックは誰に話し掛けるようでもなく、自分に言い聞かせるように話し始めた。
「彼女は新しいツアーを考えたと言った。所要時間を計算したいから実際に飛んでみると言ったんだ。俺は雨だから別の日にしたらと言った。でもイーディはお客さんは雨の日にも来るのよと、言うことを聞かなかった。彼女は新しいツアーを早く俺に認めて欲しかったんだろう。少しでも俺の役に立ちたいと思っていたんだろう」
そう言うと、リックは小さく何度も首を振った。
「エンジンは調子が良かった。約一時間のフライトを終えてイーディは無事に帰って来た。でも、着陸した瞬間に右側の車輪がバーストした。後になっても原因は分からなかった。当日の朝に交換したばかりの新品のタイヤが突然破裂したんだ。車軸は折れ、イーディの乗ったセスナは片翼を地面に擦りつけながら滑って行った。滑走路が濡れていた為、なかなか止まらなかった。黒いアスファルトの上を赤い火花を散らしながら何処までも滑って行った。滑走路の端まで行ってやっと止まったそのセスナに駆けつけた時、俺は自分の目を疑った。彼女は車軸の折れたショックで頭をドアの窓にぶつけていた。彼女は二度と俺の前にその目を開くことはなかった」
リックは僕の顔を見つめ、自分の鼻を右手の指で挟んだ。そしてふっと微笑んで言った。「もう随分と昔のことだけどね」
僕は、リックに何も声を掛けることが出来なかった。
リックはそれからすぐに遊覧飛行の会社を辞めた。腕の良い部下に後の運営を任せて、自分は空を飛ぶのをやめた。勿論、イーディの事故は彼の責任ではなかった。でも彼はイーディの居ないところで同じように仕事を続ける自信がなかったんだと思う。リックはそれでもツアー客相手の仕事だけは忘れられず、今度は空から地上での仕事に変えた。
リックがイーディのことを忘れたことは一度もなかった。彼女の仕草や負けず嫌いのところをいつも思い出していた。見知らぬツアー客の中にはとびきりの美人もいたし、そんな客の中からリックのことがとても気に入ったと、後から連絡を取ってくるものもいた。でもリックにとってイーディは特別だった。リックはイーディのことを今でも愛し、彼女が好きだった空を同じように愛していた。

休みの日になるとリックはミセス・マックォリー岬までランニングをした。汗をかくのが好きだったこともあるけれど、岬の向こうに拡がる広大な世界が気に入っていたからだ。その岬でリックは僕と出会った。茶色い柵の上に腰掛ける僕を見て、リックは何故か自分みたいだと思ったと言った。
「あんたはいつも物憂げな顔をしていたよ」
リックはイーディの思い出をゆっくりとまた自分の胸の中にしまい込んだようだった。
「物憂げな顔?」
と、僕はリックに聞き返した。
「ああ。時々見掛けるあんたはいつも同じ格好で海を眺めていた。少しも笑うことなくずっと遠くを見つめていた」
僕はリックと出会った頃のことを思い出していた。そして一番最初にリックが僕の前を通り過ぎて行った時に彼が言った言葉を思い出した。
「ねえ、リック。何故あんなことを僕に言ったんだい?」
「あんなこと?」
リックは何のことか忘れているようだった。
「一番最初に僕の前を通り過ぎた時、リックは僕に向かって『ネクスト』と言ったんだ。あれはどういう意味だったんだい?」
「そんなこと言ったっけ。いずれにしろまあ大した意味はないよ」
「大した意味はなくても少しは意味はあるんだろう?」
「あまり気にしなくてもいいことだ」
リックはそう言うと、
「それよりも明日は久しぶりの休みだ。一緒にあの岬まで行くかい?」
と、今度は僕に質問を投げつけた。
僕はまあいいやと、何か言いたくない訳でもあるんだろうとそれ以上聞かないようにした。
「いや、僕はいい。リックと一緒にマラソンなんてごめんだよ」
僕は笑って顔の前で手を振った。
「そうか、残念だな。汗を思い切りかくのは気持ちが良いもんだよ。その気になったらいつか一緒に走ろう」
リックはそう言うと、つまらない話をして済まなかったと席を立った。そしてテーブルの上に並んだビールの空き缶をキッチンの横の屑かごへ放り込み、僕の為に新しいフォーエックスを取り出してテーブルの上に置いた。
「後の戸締まりを頼む」
そう言うと、リックは自分の部屋に消えて行った。
僕は、一人きりになったクルミの大きなテーブルの前にポツンと座っていた。
リックが居なくなったイスの向こう側には真っ黒な闇を抱えるガラス窓があった。もうその窓を叩く虫の姿はない。音もなく何もかもが静かに寝静まっていた。その四角い枠の窓からは物憂げな顔をした僕がこっちを見ていた。その顔は黄色い花の横で少しも笑わなかった。
僕はミルのことを考えていた。
「いったいどうするんだい?」
鏡の中の自分に向かって、僕はそう尋ねた。

僕がこの南の国へ来たのは理由があった。ミルを想い、彼女の今を考える為にここに来たのだ。
ミルはよく僕にこの南の国の話をしてくれた。日本とは間逆の季節の国があるんだよと。蒼色の海には真っ白なオペラハウスが映り、ハーバーブリッジがその端から伸びる。見上げる空は本当に果てがないの。道行く人は誰も皆が笑っていて、私を哀れむ人は誰もいない。日本が寒くなれば、私はその国へ逃げ出したい。だっていつでも大好きな夏と暮らせるでしょう。
彼女はいつもオペラハウスの写真を持っていた。本当に彼女がここへ来たのかは分からない。でも、ここに来ればミルに逢えそうな気がした。いや、逢えることはありえなくても、彼女の歩いてきた轍を踏めそうな気がしたのだ。

(6)

僕は次の日、ジョギングから戻ったリックにそろそろ日本に帰ることにすると伝えた。
リックはとても驚き少し淋しそうな顔をした。でも直ぐに笑顔になり、それから、「それが一番いい。あんたはそうしなくちゃいけない」と真顔で言った。そして、「あんたは自分でちゃんと答えを出さなくちゃいけない」とも。
僕はリックに自分のことを何も話していなかった。それでもリックは僕のことを見透かしているみたいに何も聞かず、ただ僕に向かって微笑むだけだった。僕は出発を三日後にするとリックに言った。リックはやけに突然なんだなと言いながらも、「じゃあ、あんたにとびきりのツアーを用意しなくちゃな」と大袈裟な格好でウィンクをして見せた。
それからの三日間、リックは僕の為に休みを取った。そして僕をあらゆるところへ案内した。白いフォードを走らせ出来る限り僕に自分の町を見せた。決してツアーでは回らない彼の好きなところだけを僕に見せてくれた。
そしてこの町を発つ日、リックは車の中で僕に言った。
「よく覚えていてくれ。あんたが今見た景色を。あんたが何を思ってこの町に来たかは知らない。それはあんた自身が分かっていたらいいことだ。でもこの町にあんたが居たことは事実だ。それから俺と出会ったこともね」
リックはハンドルを握りながら前を向いたまま続けた。
「少なからず、あんたが今見た景色をきっといつかあんたは思い出す。必要としようがしよまいが」
窓の向こうは鮮やかな緑の木々が猛スピードで流れていた。決して止まることなく次から次へと流れていた。
リックの車は博物館の側を抜けセント・ジェームズ駅からサーキュラ・キー駅を通り越し、ロックスの脇からハーバーブリッジに入った。
その橋から見下ろす海は、僕がこの町に来た時と何ら変わることなく蒼く輝いていた。そしてファームス入り江の向こう側に僕とリックが出会った岬が見えた。きっと強い風が吹いているのだろうけれど、岬の麓を洗う水には一つも波が見えなかった。
僕は、この遠い国へ来た頃を思い出していた。その頃と今の自分はどこか変わったのだろうか。僕の中に何か新しい結論は出たのだろうか。
よく分からなかった。僕は以前より少しだけ自分を取り戻したのかも知れないし、或いは全く別のものをこの町ですり減らしたのかも知れなかった。
僕は物憂げに、フロントガラスから見える高い空を見上げた。
そこには期待した通り大きく散らばった雲がいくつも流れていた。
「今日の夕焼けは特別きれいだろうな」
リックが呟いた。
「雲が沢山流れる日は、動けなくなるくらい夕陽がきれいなんだ」
「ああ、知ってるよ」
僕は、運転席のリックの方を向いて言った。
リックは僕の方を見てニッコリと微笑んで言った。
「あの日もきれいな夕陽だった」
リックが僕の隣に並んで腰掛けた日のことだ。一ヶ月前、僕たちが出会った日の夕刻、本当に綺麗な夕焼けになった。
リックは何を思いついたのか、目の前を流れる雲を見上げながら僕に言った。
「もし、あんたに恋人がいて二人で夕陽を見ているとしよう。あんたはそこで何を彼女に話す?」
「何を?」
「ああ。目の前に拡がる感動をどうやって彼女に伝える?」
僕は顎に手をやり暫くの間考えた。
「あんたは何も言わないよ。きっとね」
リックが答えを出した。
「どうしてそんなことがわかるんだい?」
僕はリックに尋ねた。
「あんたが、沈んで行く夕陽を見て感動していたとしよう。それを見せようと彼女を横に並ばせてね。でも、あんたは何も言わない。それは彼女が何も言わないからだ。あんたの横で彼女が同じように夕陽を黙って見つめているとしたら、それだけで充分だということをあんたは知っているからだ。同じ感動を共有していることがすべてだということをあんたは分かっているからだ」
僕は黙ってリックの横顔を見ていた。
「あんたは日本へ帰って少しは問題が解決するのかい?」
リックはフロントガラスの向こうを見つめたまま言った。
黒い車が猛スピードでリックの白いフォードを追い越して行った。その車は次々と邪魔な車を追い越し、遙か前方に消えて見えなくなった。
「わからない」
正直に、僕はそう答えた。本当に分からなかった。ミルに会いたいいという気持ちと、会わなければならないという気持ちがあった。でも、もう会えないという気持ちと、会ってはならないという気持ちも心に浮かんでいた。
押し黙った僕に対して、リックはそれ以上何も聞かなかった。彼は小さく頷くと、バックミラーで後方を確認し、ウィンカーを出すと追い越しレーンに車を滑り込ませた。
そして、僕の方を向きながら僕の目を覗き込むようにして言った。
「いいかい、この町を忘れないでくれ」
「うん。分かった」
僕は真顔でリックに頷いた。
あの日、リックは僕の横に並んで何を思ったのだろうか。見知らぬ男の横で同じように黙っていた。いつまでもずっと同じ景色を眺めていた。リックは僕の中にいったい何を見つけたんだろう。自分を見ているようだったとリックは言った。でも、それは僕には勿論知る由もなかった。そしてそれは僕が知ることでもなかった。だってそれはリックが分かっていればそれでいいことなのだから。
リックは車を次の交差点でUターンさせて空港へ向かった。それから空港へ着くまでの間、僕たちは一言も話をしなかった。きっと何も話す必要がないということをお互い分かっていたんだろうと思う。
僕は車窓から流れては消えて行くその町の景色を目に焼き付けていた。そして窓を開けて、その町の匂いと吹き過ぎる風の音を自分の記憶に刻んでいた。
彼の車は国際線の駐車場で静かに止まった。リックはトランクから僕の荷物を降ろすと、「見送りはここまでにしとくよ」と言った。そして両手を差し出すと、僕の手を強く握り締めた。リックの手はとても大きく感じられた。
「いつか、機会があればあんたの町にも行ってみたいね」
リックはそう言って笑うと、じゃあと右手を挙げ、白い車に乗って走り去って行った。
僕はパームツリーの向こう側に消えて見えなくなるまで、いつまでもリックの乗ったフォードを追い続けていた。

一ヶ月前、ミルから突然の手紙を貰った僕は、混乱したまま南半球の国へやって来た。仕事を終え、僕は自分が大好きだった夏を求めた。出来るならばミルからの手紙の訳をここで考えられるかもしれないと思ったからだ。自分の居場所が何処にあり、自分はいったい何処へ向かえば良いのか少しでも分かるのではないかと思ったからだ。何年もの間、何の疑問もなく見過ごして来た日常を切り捨て、心の片隅に隠し持っていた小さな扉をそっと開けて、自分が本当に望むものを考えようと思った。
僕はリックという、顔に幾つもの皺を刻んだ男に出会った。僕は彼と過ごすことで少なからず一ヶ月前の自分よりは自分を取り戻せたのかも知れない。彼の幾本にものぼる優しい皺に触れる度に僕は少しだけ自分を本来の自分の居るべき場所に連れ戻せたのかも知れない。
でも、それでも僕はまだ誰かに両脇を抱えられて茶色い部屋から連れ出され、知らない何かに背中を押されながらただ漠然と前へ進んでいることには変わりはなかった。ミルのことについては何一つ答えを出していない。本当にこれからその事について考えなければならない。僕の中の窪んだ穴に意味を詰め込み、もう一度埃を吸った夏の光に足を忍ばせなければならない。僕の中にある、忘れ去って良いことと、決して捨て去ってはいけないことをちゃんと理解し、行動に移さなければならない。外れない知恵の輪を簡単に捨ててしまうことは出来ない。

その日の夕焼けは想像以上に真っ赤に染まった。幾つにも千切れた雲が何処までも長く連なっていた。
僕を乗せた旅客機は、分厚く重なる雲の上を抜け、全く音の無いオレンジ色の空間の中を安定して飛び続けていた。海のように広がる雲の遙か上空には満天の星が瞬いていた。
僕はシートベルト着用のサインが消えると少しだけリクライニングシートを倒し、心を落ち着かせながら手荷物のバッグを膝に乗せた。そして、あの日、急に何の前触れもなく突然僕の前に降ってきた事柄についてゆっくりと考えようと思った。僕はバッグの中から、ミルからの不可解な手紙を取り出した。

(7)

十月二○日、まだ南の国へ向かう少し前、一通の手紙が僕の家の郵便受けに届いた。米井さんとの最後の仕事を数日後に控え、出来上がってくる写真集を心待ちに過ごしていた日のことだ。
その日は鈍よりとした雲が空全体を覆った寒い日だった。
街全体も例年より早い灰色の雪に埋もれて何もかもが色を失い、ただ湿った音だけが意味もなくあちこちで響いていた。
僕は曇った窓からその街の様子を窺い、とても憂鬱な気分になっていた。とても今日は外に出られない、何をするにも気を遣い過ぎると。
僕はその一日をどう過ごそうかぶらぶらと部屋の中をうろつき、何度も窓の外に目をやり溜息をついた。そして結局僕は何もする気になれず、半ば諦め気分でパジャマ姿のまま新聞を取りに外に出た。どうせ心を踊らせることなんて何一つ載ってないことは分かっていた。でも何もしないよりはマシだ。多少の暇は潰れる。
僕は薄っすらと積もった雪に足を取られないように気を付けながら赤色の蓋を開けた。木製の郵便受けは昨夜からの雪で濡れ汚れ、中は水浸しだった。
思った通り、真新しい新聞はたっぷりと水分を含んでいて、僕の手の中で配達されたままの形を頑なに維持していた。これじゃ何も意味をなさない。これじゃただの紙屑だ。僕はまた大きく溜息をついて、濡れた新聞をそのまま郵便受けに叩き込み部屋に戻った。何だってこんな日は何もかもが止まってしまうのだろう。どうして考えたくもないものに気を遣わなければならないのだろう。やれやれ。僕は仕方なしにその日は作品を描くこともせず、溜まったメモや写真の整理をすることにした。

街はいつもより慎重に事を運んでいる様子で、誰もが俯きながらゆっくりと歩いていた。雪に転ばぬように、磨きたての靴を汚さぬように、挨拶もそこそこに誰もがいつもより多くの気を遣っていた。
街中の音はぬかるんだ地面に低く籠もって聞こえた。何もかもが膜をはったようにへばりつき、融けだした雪に混じって排水口に流れていた。
僕は着替えもせずのんびりとソファーに座り、アルバムに懐かしい写真を見付け、続きのページに新しい記憶を貼り足していた。部屋の中は心地よく暖められ僕は自分だけの空間を作りだそうとしていた。
時間は午前十時を少し回った頃だっただろうか、僕がそろそろ何か遅い朝食を摂ろうと、そうして自分だけのゆったりとした気持ちを取り戻しかけた時、錆だらけのバイクに乗って郵便局員が僕に一通の手紙を届けた。
真っ赤に塗られたバイクは凍った道によろよろと振らつきながら僕の家の前まで辿り着き、その郵便集配人は無造作に郵便受けに手紙を差し込んだ。僕はふと部屋の窓からそれを見ていたのだけれど彼は濡れた新聞を気にも留めないで、いったい手紙をその中に差し込めばどうなるのかなどと考えもしないのか、眉を動かすこともなく全く機械的に手紙を郵便受けの隙間に落とした。そして彼は、何もなかったようにまた泥だらけのバイクにまたがり、よろよろと振らつきながら次の停留所へ向かって行った。
僕はまた憂鬱になってきていた。もし、窓から偶然に手紙が差し込まれるところを見ていなかったらあの手紙はどうなっていたんだ。少なくとも新聞と同じ運命を辿るのは目に見えている。たっぷりと水分を含みインクは可能な限り滲み、宛名も差出人も分からなくなって結局封を切られることもないままサヨナラだ。僕は悪態をつき、急ぎ足で手紙を取りに外に出た。
淡いブルーの封筒は濡れた新聞に貼り付いて、郵便受けの底に溜まった水に浸されずに無事だった。でも新聞に貼り付いた面はやはりインクが滲み、差出人の名前がわけの分からない象形文字みたいになっていた。
僕はそのたっぷりとした手紙を持って部屋に戻り、熱いコーヒーを煎れる為の湯を沸かした。そしてその間にソファーとテーブルに散らばった写真やアルバムを片付け、もう一度キッチンに行って沸いた湯をポットに移しかえた。それからシャワーを浴びてブルージーンズと栗色のセーターに着替えた。
僕はちゃんとしてその手紙を読もうと思った。差出人の名前は分からなくなっていたけれど、宛名の文字に見覚えがあった。電話の声で相手が名乗らなくても誰だか分かるように、その手紙の文字でそれが誰からのものなのか僕には分かった。
僕はいつもより少し大きめのマグカップにコーヒーを注ぎ、ソファーに座ってからゆっくりとその淡いブルーの手紙の封を切った。
ブルーの封筒の中には同じ色の便箋が四枚入っていた。買って来たばかりの便箋を使ったのか、そのぱりっとした紙はとても良い匂いがした。そしてしわのない、角の折れていない四枚の便箋にはびっしりと黒いインクで文字が書き込まれていた。
僕は最初の一行を読んですぐその手紙をテーブルの上に置き、熱いコーヒーを一口だけすすった。僕は混乱していた。確かに僕はちゃんとその手紙を読みたいと思っていた。見覚えのある懐かしい文字を見てきちんとそうしようと思った。でも、いざ読みかけたところで僕は迷ってしまった。その手紙がいつか来るだろうとは思っていたし、実際僕には必要だった。何年も、何ヶ月も心待ちにしていたのは事実だ。でもずっと届いて欲しくないとも思っていた。考えなければならないことの準備を僕は始めたばかりだった。よりによってこんな日に来るなんて。僕にはまだ何も準備が整っていない。書く方に心づもりが出来ても、読む方にはまだ何も用意されていないんだ。
僕はもう一度コーヒーをすすり、煙草に火を点けてから立ち上がると、曇った窓の向こうの世界に向けて煙を吐き出した。
街は相変わらず湿った雪の中に埋もれ、小さく粉々になりながらその形を失って行くように見えた。
僕の口から吐き出された煙は外の世界まで届く前に曇った窓に当たり、方向を大きく変えて僕の頭上の辺りで薄く消えていった。
再び僕は心を決めてその手紙を読むことにした。いつまでも引き延ばしても同じだ。読むかどうかはこちらの勝手だけれど、あれこれ考えるのはそれからで良い。今考えることより、読んだ後に考えることの方がきっともっと重要なことなのだから。僕はソファーに座り直しもう一度その手紙を開いた。
「あなたの方は少し楽になりましたか?」と淡いブルーの便箋は始まっていた。
「いまさら手紙を出すのもどうかと思ったのですが、気持ちの整理が出来たので書きました。よく考えてみると私はあなたを追い詰めるようなことばかり言ってましたね」、僕は先を読み続けた。
手紙はミルからのものだった。彼女とはもう五年も会っていなかった。彼女は五年振りに手紙を僕に寄越した。そして彼女はその手紙の中で延々と自分を責め続けた。こういう風にしたのは私なのかもしれません、あなたの状態を考えて少しでも心安らぐようにしようと思いながら、実は責めることばかりしてきて、といった具合に。ミルは手紙の中で僕との思い出を語り、僕を理解していると書いた後、次に自分を責め、だけど自分は大丈夫だと書いていた。
僕は何も考えず一気に手紙を読もうと思っていた。考えるのはそれからで良いと思っていた。でも読み進むうちにいったいミルは何を伝えようとしているのか気になり始めていた。いったい彼女は何をしようとしているのだろう。僕は彼女からの手紙の中に理解しがたい一説を見付けた。彼女はこう書いていた。
「もし、昨日私が電話をかけなければこういう結果にはならなかったのでしょうね、少なくとも何日かの間は。でも私はあなたに対して正直に生きて来たのです。私は今、昨日あなたと交わした言葉を噛みしめています」
僕はわけが分からなかった。いったいミルは何を言っているんだ。いったいいつの昨日なんだ。僕は昨日、彼女から電話を受けていない。この五年間、何も連絡はない。彼女は五年前のことを言っているのか。
僕は慌てて封筒を取り、消印を見た。インクは滲み見えにくくなっていたけれど、それがほんの二日前の消印だということは分かった。
僕は混乱したまま、その意味を探ろうと手紙を読み進めた。でも彼女は何も新しい言葉を与えてはくれず、四枚の便箋の最後をこう締めくくっていただけだった。「私がこの手紙に書いたことは勝手な言い訳かも知れません。信じていたものを自分で終わらせたんだと思っています。ただ役に立てなかった自分が残念です。それだけです」。それで終わりだった。僕は読み終えた時、いったいどういうことか全く理解出来なかった。
僕は冷めたコーヒーを流しに捨て、ポットの湯で新しいコーヒーを煎れ直して何度もその手紙を読み返した。でもいくら読み返してみても、僕にはさっぱりその手紙の意味が解らなかった。ミルは五年もの間沈黙を守り、その間何一つとして僕の生活に拘わるようなことはしなかった。全く完全に連絡を断っていた。それなのに彼女は五年振りに突然手紙を書き、何の前触れもないまま突然僕の生活の中に入って来た。僕は確かにミルからの連絡を待っていた。この五年間ずっと何らかの情報を待っていた。でもこんな形を待ち続けていたわけじゃない。どう考えても不自然すぎる。彼女はただ自分の気持ちを羅列しただけだ。それも五年前の。彼女の手紙の中には今日までの五年間の時間が消えている。
彼女が僕に伝えようとしたことはそっくり彼女の五年前の気持ちのままだった。その気持ちは何も今聞かされなくてもその時に既に伝わっていることだ。僕はこの五年間ずっとそれを待っていたわけじゃない。僕は彼女のしたことが解らなかった。僕にすればミルはまるで五年前にその手紙を書き、それを今になって何か不要なものを捨てるみたいにポストに入れたようにしか思えなかった。彼女の現在を知らない僕に取っては、その意味が解らなかった。何故、彼女は今さら僕に五年前の気持ちを伝える必要があるのだろう。
僕が待ち望んでいたことはこういうことじゃない。僕は彼女がこの五年間に何を考え、どういう風に生きて来たか、そういうことが知りたかった。何が彼女を捉え、何が彼女を救い、彼女はどういう風に今まで歩き続けてきたのか、それを僕は知りたかった。
結局、今のミルにすればそれは別にどうでも良いことなのかも知れない。実際、僕にとってもどうでも良いことなのかも知れない。僕は彼女からこの五年間のことを聞かされても自分の生活が変わるとは思わないし、彼女にしたって同じなのかも知れない。でも、僕はそれを待ち続けていた。これからのことを考えてではなく、あの五年前に開いた扉に鍵を下ろす為に。開け放たれたままの時間を取り戻す為に。彼女にとってもそれは必要な筈だ。彼女が僕に何かをするとしたらそれ以外にはない筈だ。窪んだ穴に意味を詰め込む以外に。でも彼女は全く予想外の情報を僕に送り届けた。この五年間という時間を完全に無視し、五年前の時間をわざわざ僕に送って来たのだ。何故だ。僕には全く理解出来なかった。僕は何度となくその手紙を読み返しミルが何故その手紙を僕に送り届けたかを考えた。でもいつまでたっても答など出なかった。
僕は混乱したままソファーから起き上がって、片手にその手紙を持ったまま部屋中をうろついた。僕はただあてもなく歩き回り、その四枚の紙切れをずっと眺めていた。
淡いブルーの手紙はどう見ても新しかった。ミルは間違いなくこの手紙を何日か前に書いたのだ。五年前ではなく現在の彼女が彼女自身の手で書いたのだ。でもそれならどうして手紙の内容だけが五年前のままなんだ。僕はもう一度整理し直そうと思った。
僕は彼女からの何らかの情報を待っていた。彼女もそう思っていた筈だ。だから彼女は僕に手紙を書いた。これだけなら解る。でも彼女がくれた情報は五年前のものだった。それならどうして彼女は五年前に手紙を出さなかったんだ。何故わざわざ今じゃないといけないんだ。単純に考えれば、ミルはまだ僕に対して五年前の気持ちのままでいるということになる。でもそれはおかしい。何故なら彼女は現在心よりの幸せの中にいるのだから。それは結婚とかそういった社会的にシステマチックされたもののことを言っているのではなく、もっと内面的なところで彼女は自分が必要とするものの中にいるということだ。もしそうでないのなら彼女は僕に送った手紙の中で、僕に対しもっと恨みや妬みを書くかもしくは僕に助けを求める筈だ。いやそんな単純なことではないのかも知れないけれど、でももっと現実的なことを書く筈だ。でも彼女はそのどちらでもないものを僕に送り届けた。今の彼女が何を考えているかとかそういった現在のことではなく、どうやってここまで辿り着いたかとかどうやって歩き続けたかとかいった過去のことでもなく、単なる「時」を彼女はポストに入れた。流れる時間の中にハサミを差し込み、刃に引っかかった部分を切り取って僕に送り届けた。
僕は夢を見ているようだった。僕は自分の中の窪んだ穴に意味を詰め込むことが出来なかった。でもミルにすればそれはちゃんとした答だったんだろう。きっとミルは自分で開け放たれたままの時間を取り戻したんだろう。自分自身の手であの五年前に開いた扉に鍵を下ろしたんだろう。ミルにとってこの手紙は必要だったんだ。ただそれを理解するだけの準備が僕にはまだ出来ていなかった。それだけのことだ。
僕は淡いブルーの手紙をテーブルに置き、飲みかけのマグカップを両手に持ち窓際に立った。そして僕は自分の部屋をぐるっと見回した。
僕の部屋の真ん中にはテーブルとソファーがあり、それが唯一この四角い部屋の中で自らの存在をアピールするものだった。木製の棚や未整理の書類や床から積まれた本などは勿論、天井から吊された照明や電話機やカーテンなどは何も意味をなさなかった。それらは汚れた壁や床に貼り付いて四角い箱に溶け込み、何をすることもなくじっと息を潜めているだけだった。
僕は振り返り窓の向こうを見つめた。外の世界は真っ赤な色をしていた。何もかもが夕方の赤に塗り替えられていた。僕はもうこんな時間なのかと思った。そして今日は何も口にしていないことに気付いた。
一日が終わる。空を覆った厚い雲はいつしか姿を消し、散りじりの雲がそこにはあった。街に灰色の雪は僅かに残っているだけで辺り一面がいつも通りの姿を取り戻していた。
でも街は死んで見えた。僕にはそう思えた。何もかもが抜け殻ですべてが流れ落ちている。何もかもが埋もれすべてが止まっている。意味を探る前に時間だけがどんどん先へ進むようだ。
僕は何かにすがる思いでコーヒーを飲んだ。でも冷めたカップからはもう湯気は上らず、代わりに僕のため息が目の前で窓に消えた。汚れた窓に跳ね返ることなく吸い込まれるように消えて行った。僕は空になったマグカップを持ち、空になった躰で自分の部屋を眺めた。
窓から射し込むオレンジ色の光が部屋全体を照らしていた。テーブルやソファーはその光の中に姿を消し、僕の栗色のセーターもオレンジ色に見えた。
僕は何もかもが消えてなくなると思った。でも、テーブルの上で唯一淡いブルーの手紙だけがその色を誇示していた。僕はその時、ミルからの手紙の中の最後の部分を思い出していた。
「もうすぐクリスマスです。大好きだったクリスマス、辛い一日になりそうです」
僕は、それが五年前のことなのか、それとも今年のことなのか分からなかった。

(8)

僕は飛行機のシートの背もたれを起こし、ミルからの手紙をバッグにしまった。肘掛けのボタンを押してアテンダントを呼び、熱めのコーヒーを頼んだ。僕はミルと離れた時にぽっかりと開いた穴を埋めようと思っていた。だから、この手紙を待っていたし、それが答えを探し出すヒントになると考えていた。でも、その穴はミルと別れた時に開いたのではなかった。僕が幼い時に既に空けられていたのだ。僕は自分を思い出す必要があった。そうしなければ、ミルにはもう二度と逢えないだろう。僕はゆっくりとコーヒーをすすり、心地良い香りの中で目を閉じた。そしてゆっくりと少年の頃へ戻っていった。

僕の住んでいた町は、一面灰色の瓦屋根に覆われた、どの家にも汚れた連子窓がある古い田舎の町だった。その中心を縫うように走る道はきっちりと四角く整備されていて、仮に町外れまで来てしまったとしても何も迷うことなく自分の家まで帰る方角が分かった。木製の町は南北に細長く西側には小さな港があった。何隻かの漁船があったけれど、それを使っていたのはもう昔のことで工業地帯に隣接しているこの町はやがて漁をする者も少なくなり、いつしか新しい世代の華やかなヨットが港を占領するようになっていた。その港と僕の家の間には工場の資材置き場や新しい工場の建設予定地が何カ所かあり、海に浮かべるブイに似たプラスチック製の黒く丸いボール状の塊や、大人でも入れそうな大きな土管がたくさん転がっていた。
夏になると、七月と八月の「五」の付く日だけ沿道に夜店が数十店並んだ。海に流れ込む小さな川沿いの道にほんの五十メートル程の距離だったけれど、僕は仲の良い友人と何度となく往復し色鮮やかな玩具やお菓子を買い求めた。夜店が閉まる翌日でも金魚すくいや氷屋だけは同じ処に店を構え、子供たちは短い夏をいつまでも惜しむように楽しんでいた。僕はその時だけ暑い夏を自分の外で感じ、誰かに混じって同じように振る舞うことで自分の存在を認識していた。
子供たちの誰もが待ち侘びる季節、暑い夏の陽射しは、はしゃぐ子供たちを含め町中のあらゆるものを真っ白な世界に塗り替えた。砂利の小道を照らし出し、歪な石段のシミや割れ目を、灰色に朽ちた煙の出ない煙突や空き地の隅に立っている銀杏の木も、町中の目につくものすべてを暑く乾いた季節に覆い隠そうとする。そしてその夏の光は僕の家の茶色い格子の隙間までをも探し出しその中へ潜り込もうとしていた。
でも、茶色く煤けた連子窓は暗い部屋の中にその強い陽射しを一度に幾本にも分散させて忍び込ませていた。細い格子から漏れる光は明かりの無い部屋を斜めに横切り、部屋中の埃を含んで冷たい畳の上を這い僕の足元だけを優しく白く照らしていた。
夏の朝、陽が昇り暑い一日が始まると、幼い僕は暗い部屋の片隅でずっと格子から入り込む光を見ていた。今日はどんな一日になるのだろう。埃をいっぱいに吸ってそれは夏のすべてのものを凝縮して抱えていた。そしてその光の強さだけが僕を捉えていた。僕は躰の一部を使いその光の柱にそっと触れるだけで外の世界を、外の輝く夏を意識することが出来た。仲間たちが歓声を上げながら通り過ぎる姿や、朝顔の透けるような藍色も、どこまでも突き抜ける高い空や、雨を待ち受ける瓦屋根の影も、湿った石段の匂いや埃や大人達の汗の臭いもみんな、あらゆるものを見事なまでに浮き上がらせる世界を、僕は子供心に意識することが出来た。

・・・すべてを狂わせる歪んだ世界・・・

もし、僕がずっと子供のままで大人になるにつれて誰にも出会わなければ、誰の目も見ずに今まで生きて来たとしたら、僕はきっと目を失い、耳を失い、そして言葉を失った人間になっていただろう。心はいつまでも純粋で、汚れたもの曲がったものを頑なに拒み続けていただろう。いつまでも薄暗い部屋にうずくまり、いつまでも想像の夏を愛し続けていただろう。
たぶん、それが一番幸せだったのだろうと思う。でも、僕は実際あまりにも多くの人に出会った。あまりにも無駄なものを見つめてきた。同じところに留まることなくいつも見知らぬものに肩を押され、訳の分からないものを掴まされたまま歩き続けてきた。僕は見慣れた箱に居座ることなく、誰かに両脇を抱えられて茶色い格子の外に連れ出された。その連子窓の外側で僕は誰かに創られた夢を現実と錯覚し、自分の夢だといつまでも追いかけ続けた。そして、その夢が実は空っぽであったとしても、いつまでも気付かない振りをして、夢を失うことを恐れた。僕はいつしか嘘をつくことを学び、そして逃げることを覚えた。

今、目の前に長く伸びる線路があったとしたら、僕は何のためらいもなく前へ歩みだせるだろうか。錆びた線路は膝まで伸びた草に覆われ、いつしか二つの方向へと分かれる。そしてまたいつしか別の二つの方向へと分かれる。いったい何処へ辿り着くのだろうか。どの方向へ向かえば良いのだろう。目を凝らして遠くを窺っても枯れた草が延々続くだけで何処までも何も目新しいものは見えない。ふと立ち止まり後ろを振り返り、今来た道を戻ろうとしてももうどっちの方向から来たのか分からない。何とか記憶の景色を辿り、見覚えのある信号を探すけれど見当たらない。目の前に拡がるのは誰かが撮った無声映画のような色のない茶色掛かった灰色の景色だけだ。自分一人しかいない空虚の世界だけ。駅もなく、決して汽車など来る筈もない。

僕は何も昔を懐かしみ懐古主義を楽しもうとしているのではない。今のこの現実から逃避し幼い頃に戻り、自分の過去の中で暮らして行くことを望んでいるのではない。只、これから僕は自分自身の足で前に進んで行く為にどうしても切り離さないといけないことがあることが分かっていて、それを解決しないままぶら下げたままでは何処にも辿り着けないということを真剣に考えようと思っただけのことだ。
僕は今、茶色い格子の外にいる。たぶん、もう二度とあの薄暗い部屋には戻れないんじゃないかと思う。あまりにも多くの無駄を身に着け、代償として限りなく多くの自分を失い過ぎていた。僕の意志が存在しないところで僕の躰は動いていた。でも、それでも僕は飽きることなく歩き続けるだろう。それがこの世界のルールだから。いや例えゴールなど無いと分かっていながらも、それが円の中心に向かってぐるぐると同じところを回っているとしても、僕は手を振り交互に足を出し続けるだろう。
この現実の何処かにあの茶色い連子窓のついた部屋が存在するのだろうか。僕自身の居場所はまだ存在するのだろうか。
今、僕にはあの薄暗い部屋を探し出す必要があった。自分自身だけがぐっすりと眠れる場所を探し出す必要があった。それが僕の躰を取り戻し、もう一度僕の意志を繋ぎとめる唯一の方法だったからだ。何もあの子供時代に戻りたいと言っているわけじゃない。この現実の世界の中で僕は自分自身の居場所を見失ってしまったんだ。
幼い頃、埃が流れる部屋の中で僕自身の躰を通して僕の意識は存在し、少しずつ自分を形成していった。そしてその度に僕は僕を確認してきた。でもいつしか外の世界で僕は流され、見知らぬものを把握する前にその見知らぬものの中に埋もれてしまった。自分の感情を置き去りにし、他人の感情の中で暮らしてきた。あなたは良い人ねと言われればその通りに振る舞ったし、あなたは酷い人ねと言われれば僕は誰から見てもその通りの人に見えた筈だ。僕には自分自身を取り戻す必要があった。もう一度あの光の中に足を忍び込ませる必要があった。
その為に何をすれば良いかは分かっていた。どうすれば歩き続けられるか分かっていた。
それはクリアすることだ。僕に起こりうるあらゆることをクリアな状態にすること、フラットに保つことだ。ぶら下げることなく、ひとつひとつ切り離していくことだ。それがこの世界で唯一僕が生き残れる僕のルールだった。答など無いかも知れない。でも、振り返りひとつひとつ捨てて行かなければ僕は何処にも行けない。そうしなければこの世界に埋もれてしまう。すべてを狂わせる歪んだ世界の中で、僕は姿を消す。もし、足を止めて諦めることがあったら、その時点でゲーム・オーバーだ。

(9)

日本へ帰って来た日、空港で僕を迎えてくれたのは波野だった。
僕は編集社から、良い企画が進んでいるから纏まった作品が描けたら早く帰って来て欲しいという旨のメールをリックの家で受けた。約一ヶ月の充電期間をそろそろ終えて、丁度帰国するつもりだったので迎えを頼みますと伝えていたのだけれど、目の前に現れたのは期待していた米井さんではなく、僕と同じ歳の太った小男だった。
「なんだか嬉しくないみたいだな」
波野は、おかえりとも言わないでいきなりそんなことを言った。
「真っ黒に日焼けしている割には浮かない顔をしているな」
彼は僕の手から分厚いカルトンを受け取ると自分の肩に掛けた。
僕は、お前の姿を見て一度に気分が冷めたんだよとは言えず、長旅の疲れでねと、当たり障りのない言葉で濁した。
「この前の写真集よりは良い作品が描けたと思う。ポスターに使うか表紙に使うかは任せるよ」
「ああ、編集長も楽しみにしている。まだ決まってないが、良い企画が進んでいる。上手くいけばでかい話になりそうだ。で、何か食べるか」
波野は右手の親指を立ててロビーにあるレストランの方を指さした。
「いや、要らない。早く帰って先ずは睡眠だ。ところで、これからお前が担当になるのか」
「そうだ、と言いたいところだが、残念ながらまだ決まっていない。また米井かも知れないし、違う誰かかも知れない。新人が付くことはないが、たぶん俺か米井だと思う。不服か?」
「いや、別に誰でもいい」
僕はお前だけは嫌だよとはまた言えず、絵を見て何かあったら連絡してくれと、波野が想い出話でも聞きたそうに突っ立って居る脇をすり抜けて空港の出口に向かった。
「良い企画を楽しみにしてるよ」
僕は彼の方を振り返りもせず右手を挙げてバイバイをした。
波野は仕事は出来る男だが、僕はあまり好きではなかった。米井さんが担当をしてくれているときによく編集社で顔を合わせ、歳が同じだということで何回か飲みに行った。彼は時事に詳しく、巷の流行にも強かった。あまり人の集まるところが好きではない僕にとっては、流行の歌やファッションの話を聞くのは面白かった。でも、本質的な部分で彼とは波長が合わなかった。生理的な部分といってもいい。彼はいつも会話の中心に居たい人間で、自分の話を中心にして会話が進むことをいつも望んでいるように思えた。僕は自己中心的な考えをする人間があまり好きじゃない。彼から悩みを打ち明けられても真剣に答える気持ちにはなれなかったし、僕も自分の内面を彼に見せることは決してしなかった。でも、或る意味、かえって上辺だけの付き合いだから長く付き合えているのかも知れなかった。担当になったこともないのに、古い友人のように話だけはできた。仕事だけは滞ることなく進めることが出来た。
波野は、二、三日の内に編集社へ顔を出してくれよなと、僕の背中越しに大声で叫ぶと、作品の入ったカルトンを大事そうに抱えるとロビーの反対方向へ消えて行った。
僕は外の空気を吸い込むと煙草の煙を吐くように口をすぼめてゆっくりと吐き出した。タクシーを待ち並ぶ人が重い荷物を両手に持ったまま、規則正しくまるで人形のように何も言わず列をなしていた。それぞれに黒いコートを着て、配給の食事を黙って何時間も待っているように、途方に暮れた顔で並んでいた。誰もが皆、目の前の見知らぬ人の丸まった背中を意味もなく、ただじっと眺めていた。私にも暖かいスープをください。私にも少しだけ幸せを分けてください。
見上げた空は灰色でとても低く感じた。同じ顔をしたたくさんの人が吐いた息が空を覆っているみたいだった。
何処からかクリスマスソングが聞こえていた。僕はこの寒く冷たい一年の終わりには似つかわしくない場違いな日焼けした顔をして、その物憂げな歌を聞いていた。
「もうすぐクリスマスです。大好きだったクリスマス、辛い一日になりそうです」
ミルがそう言った。

僕のゼミにミルが突然やって来た日から丁度一週間後、僕はグランドで偶然彼女を見掛けた。僕はグランドを抜けて自分の作品を描く為にゼミに向かうところだった。買って来たばかりの新しい絵の具と筆を小脇に抱え、クラブを楽しむ者の邪魔にならないようにと脇をすり抜けようとしていた。
広いグランドの半分位のところまで歩いて来た時、その茶色い土が草地に切り替わるところで、僕はミルがペンキの剥げ落ちたベンチに一人腰掛けているのを見つけた。彼女はカメラを両膝の上にそっと置き、土にまみれて転がる楕円形のボールを優しい目で追いかけていた。
僕はミルに気付かれないようにそっと近づき、彼女の真後ろから声を掛けた。
「そうやって見るのってクセなんだね」
彼女は突然声を掛けられびっくりしてベンチから跳ね起きた。
「久しぶりだね」
僕は、驚いているミルに笑いながら言った。
「もう、びっくりするじゃないですか」
彼女はカメラを持った手で心臓の辺りを押さえながら言った。
「いきなり人に話し掛けるのってよくないんですよ」
彼女は唇を尖らせて少し怒っていた。でも、はっと気付いたように顔を赤らめると、
「ごめんなさい。突然話し掛けたのは私の方が先でしたよね」
と、そう言うと舌を出してニッコリと笑った。
僕はそう言う彼女に、ごめん、ごめんと右手を上げ、彼女の座っていた隣に腰を下ろした。
「久しぶりですね、もうあの絵は出来ましたか?」
ミルはそう言って、もう一度僕の隣に腰掛けた。彼女は今度はカメラを膝の上にではなく、僕と反対側に邪魔にならないようにベンチの上に置いた。
「いや。そんな簡単には完成しないよ」
僕はミルに新しい絵の具の包みを見せた。
「後、一ヶ月といったところかな。ところで君は何をしてるんだい?」
「私ですか。これと言って何も。ただぼーっとしてただけです」
そう言うと、ミルは僕の顔を見て小さく微笑んだ。
「今日は空が薄曇りでしょ、何だかつまんなくて」
「ああ、そう言えば君は雲が好きって言ってたっけ」
「ミルでいいですよ」
彼女は自分のことをそう呼んで下さいと言った。
「私、小さな頃からずっとばかみたいに空ばかり見てたんです。家が田舎だったから空を遮るものが何もなくって、大きな雲が町中に影を落として行くんです。何軒も覆い被さるような大きな雲がたくさん流れて行くんです。それを見上げたままずっと追いかけて走ってました。見上げたまま走るからその内、何かにぶつかったりして。ばかみたいでしょ」
ミルはそう言って僕の方を見て笑った後、首を上げて薄曇りの空を見上げた。
僕は、彼女と同じように空を見上げて言った。
「駄目だね。今日はこの町中、薄い雲に覆われてるね」
空は、薄い灰色の雲で覆われていた。それが雲と呼べるものなのかは分からないけれど、いつもそこにある青く澄み切った空はどこにも見えなかった。
「ねえ、ミル。良かったらこれから少し付き合わないか?」
「えっ?」
ミルは戸惑ったように僕を見て、少し顔を赤らめて下に俯いた。
「付き合うって、でも私、まだ何も」
僕はミルの勘違いに気付き、笑いながら左手で彼女の束ねられた髪を少し小突いた。
「何を勘違いしてるの。もしこれから授業がなければ一緒に出掛けないかって言ったんだよ」
「あっ、またやっちゃった。私てっきり」
彼女はさっきよりももっと顔を真っ赤にして、両手でその顔を恥ずかしそうに覆った。
「ばかだね。まだ二回しか会ってないのに何も変な気をおこすわけがないだろう」
僕は声を出して笑った。
「それよりもどう、ちょっと付き合わないかい?」
「いいですよ。私、これから何も予定ないし。お付き合いさせて頂きます」
ミルはそう言って僕の前で首を斜めに傾けて微笑んだ。
僕は荷物を置いてくると言ってミルをその場に残し、走ってゼミに向かった。
グランドの中では汗で濡らしたジャージに茶色い土を付けて、屈強な男たちが息を切らしていた。彼らはたった一つのボールに全神経を集中させ、そのボールに導かれるように変わり行く季節を誰よりも体に刻み込んでいた。
グランドを囲むように立ち並ぶ木々の間を一瞬の風が通り過ぎた。風は梢の隙間を抜け日焼けをした男たちの上で旋回した後、ベンチに腰掛けるミルの髪を揺らした。ミルは両手を伸ばし背中をピンと伸ばすと、風が吹き抜けていった空を見上げた。
何処かで蜩がカナカナカナと夏の終わりを告げていた。
運命というものが存在するのであれば、それはいったいいつ、どんな時に認識することが出来るのだろう。僕には分からない。それは僕たちの意識が届かないところでだけ口を開いているのだろうか。例えば小さな水溜まりの中で、踏んでしまえば消えてしまう水に映った雲の中で。それはすべての幸せへ向かっているのだろうか。

僕はミルを町外れの小さな川まで連れて行った。
その川は遙か彼方に見える連なった山を源流としていてこの町を抜けて遠い海まで続いていた。勿論そのままでは川の水は飲めなかったけれど、この町の子供たちはこの川で育った。水量はそれ程多くなかったけれど、川幅は広く五月にはそれを跨ぐように沢山の鯉のぼりが並んだ。
「下まで降りられるよ。行ってみる?」
僕はミルに聞いた。
「大丈夫?」
「大丈夫。僕が支えるから」
「うん。水に触れるかな」
彼女は子どものような笑顔で僕の後をついて来た。童顔の彼女はとても二十歳過ぎの女の子には見えない。それでも僕が彼女を大人だと認識出来たのは、彼女のその小さな唇に塗られたオレンジ色の口紅と、それと大きいとは言えないけれど胸の膨らみが分かったからだろう。
僕たちは川原を歩き、丁度堰の辺りで腰を下ろした。
ミルは水際にしゃがみ込んで角の取れた丸い小石を川面に投げ込んでいる。
「私の町にも同じような川があったんですよ」
そう言うと、懐かしそうな顔をして堰に落ち込む水を目掛けて少し大きめの石を投げ込んだ。
「こんなところに、こんないいところがあったんですね」
「みんな普段は見過ごしてるだけなんだ。いつもは誰もがあの橋を渡って生活してるのに」
僕たちが見上げた先に錆びた鉄骨で出来た小さな橋があった。町中を走り抜ける相乗りバスが丁度その上を走り抜けるところが見えた。
「ちゃんと足の裏で感じられる程近づけば、いつもの川だって感じが違う」
僕はしゃがんでいるミルに向かって、背中越しに言った。
緩やかに流れる川は傾いた陽射しに金色に輝いていた。何処からか流れてきた子供用の黄色い帽子が回りながら堰に落ち込み、裏返しになったまままた顔を出した。そして誰に拾ってもらうのか、見知らぬ下流に向けて流れて行った。
誰も巻き戻すことは出来ない。音を立てながら流れる川は、決して振り返ることもなく絶えず僕らを運び続ける。何がその先にあるのかは知らない。それが必ずしも幸せに辿り着くのかどうかもわからない。
「不思議な人ですよね」
ミルは振り向き立ち上がると、僕の方へ近づきながら微笑んでそう言った。
「あなたとまだ二回しか会ってないのに、私はあなたとここにいる。でも、ちっとも変じゃないんです。何の緊張もなく、むしろすごくリラックスしてる。これってすごいことですよ」
彼女はそう笑うと立ち止まって俯き、頭の後ろに束ねてある髪をもう一度両手で結び直した。
僕は川原に座ったまま、彼女のカメラで彼女を撮るふりをした。彼女は金色に揺れる世界の中に、まるで溶け込んで消えて行くみたいに滲んで見えた。
ミルは僕の横に腰掛けると、ありがとうと言って僕からカメラを受け取り、自分の膝の上にそっと乗せた。
「私、人見知りするんです、いつも。でも、あなたは違った。何故か不思議ですけど」
ミルは自分の膝の上で小さなカメラをいじっている。そして悪戯っぽい目を僕に向けて言った。
「いきなり私とデート出来るなんて、とってもラッキーなんですよ」
「これは、どうもありがとうございます」
僕は彼女の微笑んだ顔の前に深々とお辞儀をした。そして、気持ち良さそうに川面に目を移したミルの横顔を眺めていた。その小さな耳にはねじの形に似たイヤリングが光っていた。僕は彼女のその小さくて整った横顔を見て、何故か理由の分からない痛みを感じていた。
川は僕たちの前で、あることを懸命に伝えようとしているように見えた。音を立てながら揺れる水面は金色の西陽に輝き、すべてのものを飲み込んで流れていた。一瞬の内に何もかもが消えてなくなっていた。橋を渡る車の影も、子供たちの笑い声も、遠い記憶も、僅かな夢も、そして今のこの微かな痛みも。でも、それらはいつの間にか形を変えてまた何処かの水面にこっそりと顔を出した。

それがデートと呼べるものなのだとしたら、それが僕たちの記念すべき一回目のデートになるのだろう。ミルはそれからちょくちょくと自分の授業の合間に僕のゼミを覗いた。彼女は僕が居ない時でもお構いなしに勝手に僕の作品の前に座り、僕がやって来るまでその前でじっと待った。僕たちは青い作品の前で色んな話をした。彼女は僕の話すことに真剣に耳を傾け、自分の写真のことについて僕に意見を求めた。僕は出来る限り彼女と一緒に時を過ごそうとし、彼女もそう思っていたんだろうと思う。
彼女は時に僕を強引に夕食に誘い、躰にいいからと嫌がる僕に、例えばワニのスープを飲ませようとした。「何でも経験しないと駄目な大人になってしまうぞ」と、彼女は笑いながら僕にしつこくワニの骨を振って見せた。僕はもう結構いい大人だからと青い顔をしながら彼女の骨付きの手から逃げ、そのいかがわしい熱帯風の店から外に出た。
或る日、彼女は突然花屋の店先で僕の腕を引っ張ったことがあった。僕にカメラやノートなんかを押しつけて自分はさっさと店の中に入って行った。僕は何か気に入った花があったのだろうかと彼女の姿を探すと、ミルは名前も知らない小さな鉢植えの前に佇んでその白い花を見ていた。
「また、新しい命が咲いてるね」
彼女は僕にそう言うと、何を気にすることもなく僕の腕に自分の腕を絡ませて、そして幸せそうに笑った。
そのまま店を出て行こうとするミルに、「花は買わないのかい?」と、僕は尋ねた。
ミルは、僕の腕を引っ張りながら、
「自然が一番いいの。鉢に入れられたものを、加えて不器用な私が育てることはないです」
と、少し淋しそうに言った。
僕はそんなミルのことがとても気に入っていた。彼女は僕の前で屈託なく笑い、いつも悪戯っぽい目をした。誰が見ていようと構わず僕の手を引き、突然立ち止まっては頭の上の空を見上げた。彼女はそれでも「おとこの人には慣れていないんです」と言った。そして、「いつも失敗ばかりで。でも、ここのところちょっと違うかな」と、僕の目を覗くように言った。
「それは新しい恋をしてるってこと?」
僕はミルの悪戯っぽい目を見ながら聞いた。
「それはヒミツです。だって私にもまだよく分からないんです」
彼女はそう言うと僕の腕をすり抜けて行き、危なっかしい足取りで振り返ると目の前でカメラを構えた。
「不思議な人ですよね」
ミルはそう言うとニッコリと笑い、シャッターを切った。

(10)

十二月に入ると、街中が浮き足立っているように感じられる。街全体が赤や黄色のネオンで飾り付けられ、何もかもがたった一日の為にその姿を変えていた。いたるところからベルや鈴の鳴り響く音が聞こえ、聞き飽きたメロディーの下で白い髭を貼り付けた男が大声で何かを叫んでいる。
ショウウィンドの中には赤と緑色のリボンが溢れ、華やかなマネキンは寒空の下を足早に歩く疲れた人たちを黙って見ていた。
コートの襟を立て、ポケットに手を突っ込んで、誰もが俯き歩いている。彼らはひとつも笑うことなく、まるで全ての人生を諦めた老人のように自分の靴ばかりを見て歩いていた。背中を丸めた老人たちは誰かにぶつかりそうになってふと立ち止まり、傍らの鮮やかなショウウィンドに気付いてそれを暫く眺めた後、また何事もなかったように足元を見つめながら歩き始めた。
僕は心地よく暖められたバーの窓からそれを眺めていた。四角いマホガニーのテーブルに一人で腰掛け、タンカレートニックにライムではなくレモンを落とし、杖を持つ人たちを見つめていた。
クラシカルという名前の、黒を基調としたその薄暗いバーの中では、外の冷たい世界のことなど気にも掛けない若者たちが、それぞれの空気の中で顔を寄せ合い何事かを囁いている。
彼らは流行のアルコールを飲み、誰もが知っている煙草を喫っていた。昨日と同じように彼女の髪を触り、明日も同じ場面で白い歯を見せ、同じ台詞を語るのだろう。靴擦れのする靴であっても誰かが羨めばその靴を履き、でも決して汚れたり、皮が馴染み、踵がすり減るまで履き潰すことはない。
煙草の煙が漂う天井からはブラックの「WONDERFUL-LIFE」が懐かしく静かに流れていた。ワンダフル・ライフ。目の前に拡がる世界はいったい誰の為のもので、それは順番さえ待っていればいつか僕にも自分の為と言える時が来るのだろうか。誰かにとってみれば素晴らしく心地良い世界であっても僕にとってみれば苦痛で耐え難い世界かも知れない。僕にとって安心出来る世界であっても他の誰かにすれば不思議で居心地の悪い世界かも知れない。
僕は窓際の席に座り店の中に背中を向けて、ありきたりのアルコールを飲みながら外の景色を眺めていた。踵のすり減った靴をテーブルの脚の陰に隠し、解けた靴ひもを固く結び直して。僕は冬の景色の中でそれが一番好きだった。自分以外の誰にも自分の姿を見せず、誰もがそれぞれに背中を丸めて歩いている姿を遠くからそっと眺めるのだ。
それぞれの人がそれぞれの人生を持ち、それは他人にはどうでも良いことであって、誰もが自分の枠の中だけで歩いている。少し顔を上げて横を振り向けばそこには暖かい世界があるのかも知れないのに、誰もがまるでこの世には自分一人しか存在していないような顔をして俯いている。寒ければ寒い程背中を丸め、決して顔を上げようとはしない。

冷たい灰色の世界に、一列になって行列は続いている。それは壁の剥げ落ちた古いビルの角を曲がり、二ブロック先の標識を折れて、緩やかに捻れた坂を登って、そして黒く塗られた大きな鉄の扉まで続いている。分厚い鉄の扉をゆっくりと開けると、その向こうには朽ちた木で出来た螺旋階段があって、杖を持つ人々は皆同じ様な黒い頭巾を被り、一列になって何処までもその階段を昇り続けている。
誰かが腐った木の間に足を取られようと、誰かが過ってそこから足を滑らせようと、誰も気が付かない。手をついた者の横をすり抜け、何事もなかったように自分の足をいつまでも動かし永遠に続く階段を昇り続けているだけだった。
僕は曇った窓から、高いビルの間に覗く四角く縁取られた薄っぺらい空を見ていた。その空は裏の保護紙を剥がしたシールみたいにそこに貼り付き、いつまでも止まったまま動かなかった。
凍った灰色の空の下でいつまでも黙って歩き続ける人たち。僕は、少し哀れんだ気持ちで、何故か少し泣きそうになりながら、それを見ていた。

僕は茶色いテーブルの上に片肘をつきその上に顎をのせて、ぼんやりと手元のグラスに目を移した。そして着古して柔らかくなった皮のジャケットから煙草を取り出し、オイルライターで火を着けた。天井に向かって何度か煙を吐き出した後、次に僕はジントニックを載せてあった紙製のコースターを左手で持ち、そのコースターに口を着けもう一度煙をゆっくり吐き出した。
白いコースターの真ん中に茶色い染みが小さく拡がった。僕にはその染みが何かの地図みたいに思えた。それは誰も行ったことのない不思議の国で、すべてを狂わせる歪んだ世界の入り口だった。
僕はそのコースターをテーブルの上に戻して、その上にグラスを置いた。グラスの中の氷は少しずつ溶けながら透明の液体を冷やしていた。
円く削られた氷が小さくカランっと音を立てた。
店のカウンターから二人の女の子がこっちを見ていた。彼女たちは並んで足の長いイスに腰掛け、丈の短いスカートから細く長い足を見せている。左側のやけに高いヒールを履いた女の子が隣に座る髪の長い子に何かを耳打ちした。髪の長い女の子は不似合いな赤い爪をした指でその髪を掻き上げ、目を細めるようにして僕の方を見た。そしてまた二人で向き合うと何かを囁き合った。声を潜めてくすくすと笑っているみたいに僕は感じた。
店の中はいつか誰かが吐き出した煙草の煙と、いつか誰かがこぼしていった溜息で満たされていた。いつもは大好きな馴染みのこの店も今日はやけにくすんで見えた。
僕はカウンターに座る彼女たちから目を離さず、ただぼんやりと無表情でその二人の仕草を眺めていた。そして短くなった煙草を灰皿に揉み消し、氷が溶けて薄くなったアルコールを飲み干した。それは炭酸が抜けたただの甘い水だった。僕はグラスの中の皺ばんだレモンを暫くの間見つめた後、近くを通ったウェイターを呼んだ。愛想の良いそのウェイターは空のグラスを持ってカウンターまで行き、僕の為にもう一杯同じものを注文した。
店の中はさっきよりも照明を落としているように感じられた。振り返った窓の向こうには湿った夜の街しかなく、僕の顔の上には星の代わりに色とりどりのネオンが瞬いているだけだった。
僕はもう一度カウンターの方に振り向いて自分のグラスに透明の液体が注がれるのを待った。そしてその杜松の実の香りのするアルコールをウェイターが再び僕のところへ届けようとした時、カウンターの前の爪の赤い女の子が彼に何か囁いた。
ウェイターは黙って頷くと彼女の顔を見た後、僕の方を見た。そして彼女へ軽く会釈し、ゆっくりと僕の前へジントニックを届けに来た。そして僕に向かって、「あちらのお客様が御一緒させて頂いてもよろしいかとおっしゃってますが」と言った。僕は、ウェイターが手を差し示す方、カウンターの前に座る女の子を見た。彼女たちは二人ともこっちに顔を向け僕に向かって軽く会釈をした。
僕は返事を待っているその愛想の良いウェイターに向かって、
「申し訳ないが待ち合わせなんだ。そう言ってくれ」
と、嘘の伝言を頼んだ。
彼は忠実な騎士のようにまたカウンターの女の子のところへ戻って行った。
僕はもうカウンターの方を見ていなかった。僕はジャケットから折れ曲がった煙草を取り出し、それを何回か指で直してから火を点けて喫った。そして煙の輪を作って暗い窓に向かって静かに吐き出した。煙は窓に映る僕の顔を覆うように拡がり、体をくねらせながら何処かに消えていった。
僕は窓に映る自分の顔を見ていた。その顔は老人のような虚ろな目でこちらを向き、まるで別の世界からこちら側を覗き見ているようだった。

誰かが知らない間に僕の背中を押す。そして知らない間に僕の両脇を抱え僕を知らない処へ連れて行く。僕は自分の躰にいつの間にか沢山の重りを括りつけられ、その意味も分からないまま何処までも引き擦って歩いて行く。そしていつの間にか僕は自分の靴を擦り減らし、気が付いた時には前に進むことも後ろを振り返ることも出来なくなる。そこに立ち尽くす意味さえ分からず、自分が誰かも忘れてしまう。ふと周りを見回すと、乾ききった砂の街に僕と同じような顔のない老人たちが呆然と立ち尽くしているのが見える。彼らは崩れ落ちそうな壁にもたれて強い陽射しから身を隠し、暫く休憩するとまた知らない誰かに肩を押され歩き始める。何処へ行くのかも知らず、何の為に沢山の重りを抱えているのかも分からず、自分が誰かということも置き去りにして。

僕はグラスの表面を滑る水滴を見つめながら、ミルのことを考えていた。ミルから届いたあの手紙のことを考えていた。
何故、彼女は僕にあの手紙を出したのだろう。何を僕に伝えたかったのだろう。或いは僕に何を求めていたのだろう。僕は彼女に対していったい何をすれば良い。僕自身に対してどう答を出せばいいのだろう。
僕は氷の溶けたグラスをテーブルの上に置き、天井を見上げながら煙草を喫った。黒塗りの天井には隅の方に四角いスピーカーが小さく隠れるように吊されてあった。その小さな箱からは今はジョン・ルーリーがその声を絞り出していた。ストレンジャー・ザン・パラダイス。まるで映画には似つかないけれど、僕は知らない町に迷い込んだような錯覚を覚えた。ここは楽園なのだろうか、それとも深く哀しい迷路の入口なのだろうか。僕は頭上から降りてくる懐かしいメロディーに耳を澄ましながら、自分の真上に雲を創るみたいに煙草の煙を吐き出した。

僕はしっかりと答を出さなければならない。僕自身の手で開いた扉にきっちりと鍵を下ろさなければならない。窪んだ穴に意味を詰め込まなければならない。それは、誰かにとっては別にどうでも良いことで、何も意味を成さないことかも知れない。毎朝焼けたパンにバターを塗るかジャムを塗るか程度の問題にも満たないのかも知れない。でも、僕にとってはそこを踏み台にしない限り前に進めない。
ミルと過ごした時間に膨らんだ箱が、ミルと離れた時に扉を開いた。僕はその扉が開いたままで今まで過ごして来た。心の何処かに合い鍵の在処を探す方法を置き忘れ、開いた扉をパタンパタンと鳴らしながら、ただ知らない誰かの中で気を紛らしていただけだった。鍵を下ろさなければならない。そうしない限り僕は永遠に誰かの瞳に映る僕であって、僕自身を取り戻し自分自身を忘れず生き続けることは不可能だ。僕は五年前に開け放たれた扉を閉じ、すべてのことに対して意味を詰め込まなければならない。一枚一枚ページを捲り色を塗らなければならなかった。それが、例えもう二度とミルに会えないのだとしてもだ。

僕はもう一度カウンターの方を振り向き、さっきの赤い爪をした女の子を探した。でも茶色いイスには彼女たちの姿は無く、同じような格好をした別の女の子が一人で座っているだけだった。
彼女は赤い爪をした女の子と同じような長い髪をして同じような短いスカートを履いていた。そして同じように長くて細い足をそこから見せていた。
彼女は誰かと待ち合わせなのかカウンターの席に一人で座り、手首にぶら下がった時計をしきりに見ていた。そして何か飲み物をカウンター越しに注文した後、膝に置いたバッグから長くて細い煙草を取り出して口を窄めるようにして火を点けた。その髪の長い女の子は何に気遣うこともなく、煙を目の前のバーテンダーの背中に向かって吐き出した。
煙は彼の背中から頭にかけて彼の姿を白く覆った。それは彼女が自分の顔の前にただ煙を吐き出しただけで、たまたまそこに誰かが居たというだけで、彼女は何を悪びれることもなく何も気付かない。
僕は何故か哀しくなって、その髪の長い女の子をじっと見ていた。背中を向ける彼女の顔は分からない。でも、僕にはそれはどうでも良いことだった。だって彼女がどんなに整った顔立ちをしていようと、きっとさっきの爪の赤い女の子と僕は見分けがつかないだろうから。僕に見えるのは誰もが同じような格好をして、そして誰もが顔の無い区別の付かない人たちだけだった。僕は虚ろな気持ちで同じ顔をした人たちを見つめていた。

「誰だって同じじゃないわ」
と、ミルが言った。
「あなたが考えている程、私は何も出来ないし、あなたが思っているよりも私は何も知らない。誰にでも才能があるとは思わないし、誰だって同じじゃないんです」
彼女はそう言って目の前のカップを握りしめた。彼女は空になったコーヒーカップを見つめていた。そこには乾いたコーヒーと彼女のオレンジ色の口紅がこびり付いていた。
ミルはすみれ色のセーターを着て僕の目の前で懸命に涙を堪えていた。彼女は自分の部屋で自分の作品についてもう一枚も撮れないと言った。
「あなたが絵を描くようには私は写真を撮れない。自分のイメージが上手く浮かばないの。何をモチーフにどうシャッターを切れば良いのか分からない」
彼女は、半ばヒステリックに僕の目を睨んだ。そして目を真っ赤にしながら何度も首を振った。でも彼女は決して涙を落とすことはなかった。
僕は彼女の目の前に座り、彼女の目をじっと見ていた。その小さな瞳には涙の塊がたっぷりと浮かんでいた。その瞳の奥で彼女はいったい何を見つめているのだろう。
小さな彼女のアパートは冬の始まりに震え隅々まで冷たかった。僕たちは安物の電気ストーブで暖を取りながら四角い木製のテーブルに向かい合っていた。
「誰だって同じなんだよ」
僕は、ミルに向かって言った。
「やっぱり、僕はそう思う。誰だって同じなんだ。でもそれは悪い意味じゃなく、或る意味においてということだけれど」
ミルは顔を上げず、黙って下に俯いたままだ。僕は自分に言い聞かせるように続けた。
「誰だって言いたいことは一理あるんだと思う。伝えたいことはそれぞれにちゃんと意味があってね。だけど、伝え方が少しでも狂うと誰にも何も伝わらない、言いたいことの半分も伝わらないんだ。とても悲しいことだけれど。でもそれは手段の問題であって中味の問題じゃない。例えばね、例えばの話だけれど」
僕は俯いたままのミルの顔を何故か哀しい気持ちで見ていた。
「例えば、頭の周りにぐるっと点線を打って、そこを切り取り線みたいにして頭蓋骨を外して頭の中を覗くことが出来れば、誰もがみんなすごいことを考えているのが分かると思う。でも、実際は頭の中を見ることが出来ないし、結局は手段の問題なんだよ」
ミルはカップをテーブルの上に置き、僕の方を見上げて言った。
「手段の問題?」
「そう。頭の中のことをどうやってこの手の先に伝えるかってこと」
僕は左手の指で左側の耳の上辺りをコツコツと叩き、それからその指を自分の右肩、右肘と移動させ、次に右手の人差し指を叩いた後、その右手の指で文字を書く振りをした。
「最後はどうやって表現するかだけの問題なんだ。誰でも頭の中では百点満点なんだよ。ただ伝え方が人によって違うだけ。それは絵であったり、音楽であったり、写真であったりするだけで何ら変わりはない」
「私にはその表現する才能がないのよ」
「そんなにがんばることはないさ」
僕はミルの右手の人差し指を触りながら言った。
「君は何の為に写真を撮っているんだい?」
「何の為?」
ミルは僕の手を握り返して聞いた。
「そう。いったい何を思って写真を撮って来たの? 君は誰かに見て貰いたくてシャッターを押していたわけじゃない筈だ。自分が気持ち良いように、自分が見たいもの、残したいものにだけピントを合わせて来たんだろう」
ミルは僕の右手を両手で握り締めて小さく呟やくように言った。
「何となく、あなたの言うことは分かるような気がする。でも、私は絵を描いているんじゃないんです。カメラの前には何か具体的な被写体がいるんです。イメージだけでは何も写らない」
彼女はそう言うと僕の手から両手を離し、ごめんなさいと言って席を立った。そして今日の私はどうかしてる、忘れて下さいと言って少し疲れた顔をして作り笑顔をして笑った。
ミルは、その小さな躰をより一層小さく、まるで何か見えないものに押し潰されるのを黙って待っているかのように背中を丸めて僕の方を見ていた。彼女は消え入りそうなささやかな声でありがとうと呟くと、もう一度ごめんなさいと言った。そして立ったまま自分の顔を両手で覆った。
夜の帷は僕たちを静かに包み込み、音と色の無い覚醒の中に僕たちは入って行く。白い霧の中で僕は全身を湿らせ、目の前で肩を震わせている小さな女の子だけを見つめている。僕はその少女に心からの切なさを感じる。
僕は、ミルを寝室のベッドまで連れて行き、横たわった彼女のその小さな唇にそっとキスをした。ミルの唇は少し湿っていて、とても柔らかかった。
「もし良ければ、今日はこのままここに居て下さい」
彼女は細い両腕を僕の首に回し、眉を寄せて言った。
「ううん。用事があっても、お願いですから今日はずっとここに居て下さい」
「ずっと側にいるよ」
僕はミルの腕を静かに降ろし彼女の頬にそっと手を添えると、ベッドの傍らに腰を下ろした。
それは本当に幸せな時だった。僕は今だけ時間が止まってくれれば良いのにと思っていた。このまま夜が明けないで欲しいと願っていた。僕たちの周りですべてのものが息を潜めていた。呼吸をしているのは僕と彼女だけで、何もかもがじっと僕たちの運命を見定めているみたいだった。
僕はベッドに横たわるミルの顔をじっと見つめていた。彼女も僕の顔をじっと見つめていた。そして僕たちは自分の事を色々と語り合った。

小さい頃から少女は毎日ミルクを飲んでいた。躰が弱かった彼女は友だちが校庭で走り回っているのをいつも円い木陰から眺めていた。自分も一度位思い切り走りたかったけれど、直ぐに貧血を起こす彼女にそれは出来なかった。でも、少女は決して淋しくはなかった。それは彼女がいつも笑って友だちのことを見ているからか、その友だちは疲れると決まって少女のいる木陰までやって来て色んな話をしてくれたからだ。誰もが入れ替わりやって来ては、その少女の為に色んな物語を聞かせてくれた。
少女はそんな友だちの為に自分でもたくさんの本を読んだ。友だちはまたそんな少女からの話を楽しみに聞いていた。誰もが少女のことを好きだった。彼女は運動が出来ない分、少しでも強くなればと毎日ミルクを飲んでいた。いつからか友だちはその少女のことをミルと呼ぶようになった。
ミルは学校から帰ると自分の部屋の窓を開け、遠くで遊ぶ子供たちの歓声を聞きながらいつまでも本を読んでいた。それは誰もが読む童話であったり探険記であったりした。そして大人になるに連れてその本は誰かの詩集であったり海外の訳本であったりした。時にはそれは文字から絵や写真に変わる時もあった。ミルは開け放たれた窓際の近くにイスを持って来て、そこに腰掛けていつまでも自分の知らない世界のことを考えていた。陽が傾き子供たちが家路につくまで彼らと同じように外の空気を吸い込んでいた。部屋の中にいても同じように外の世界を意識していた。そしていつもその世界のことを想像していた。
そこには誰も見たことがない巨大な雲が真っ赤に化粧をして流れていた。何処まで行くのかは誰も知らない。勿論ミル自身にも分からない。その巨大な雲は名も知らない黄金色の谷を抜けて朱色の川を越えて、ただいつまでも流れて行く。とても穏やかな風が吹くのなら遠い町まで、もし空の隅に陽が射すのならゆっくりと円を描きながら。
ミルはその雲の上に乗り、小さいけれど噴水のある町まで飛んで行った。ミルが辿り着いたその町では見知らぬ花や草や木の香りが彼女の髪を愛撫する。彼女はその木の下に腰を下ろしノートを膝に抱えて両手いっぱいにクレヨンを握り締めて目を閉じている。でもいざ目を開けてしっかりと景色を眺めようとすると何もかも全てが消えて無くなってしまった。ミルは何も新しいノートに描くことが出来ない。空から見下ろす町は色とりどりの世界だったのに、足を地面に着けたとたんにすべてのものが色を無くしてしまった。ミルは押し黙ったままの町を眺め、息の出来ない冷たい空に目をやり、もし何処か暖かいところへ連れて行ってくれるバスでもあれば今より少しはマシなのにと思う。彼女を乗せたバスはきっとハイウェイ沿いの小さな店に立ち寄ってくれる筈だ。その小さな店がミルはとても気に入るだろう。その店には誰か知らない人たちのそれぞれの幸せが刻まれている。円いガラスケースの中に赤や黄色のガムボールがあり、羽の詰まった大きなベッドがある。そして油の匂いのするテーブルにはクセのあるお茶があり、黄色くなった壁には優しい家族が笑っている。ミルはそのテーブルにポツンと向かい白いノートにクレヨンで色を塗り始める。頭の上の太陽が沈む前に、誰かが膝を抱えてうずくまる前に、そしてすべてのものが耳を塞いで口を噤み黙り込む前に、彼女は目にする全てのものに色を着け始める。
彼女は窓から子供たちの姿を追いかけ、やがて夕方のサイレンが鳴り響き高い煙突の影が長く伸びる頃、少しは涼しくなった時間を見計らって自分の部屋を飛び出して行った。そして息が切れる迄、貧血で苦しくなる迄、その天高く赤く連なる空を追い続けていた。

ミルは僕に側に来て欲しいと言った。傍らに座っているのではなく一緒に横になって欲しいと言った。時計の針はもう次の一日の始まりを告げていた。
僕はジーンズとTシャツを脱ぎ、彼女のベッドを汚さないように這い上がって、彼女の隣に横になった。僕は腕枕をしようと彼女の頭の下に手を伸ばしたが、ミルは腕が痺れるからとそれを制した。その代わり、彼女は僕の手首を掴むと僕の手のひらの上に自分の頬を乗せた。そしてこれが良いのとそう呟くと彼女は僕を見つめながら僕の方に躰を向けた。そして躰を寄せ付けながらミルは壊れそうな小さい手で僕のもう片方の手を掴むと、自分の柔らかな胸に沿わせて、消え入りそうな声で言った。
「私、初めてじゃないんです。だから気にしないで下さい」
そう言うと、彼女はゆっくりと目を閉じた。
ミルは僕が男だからそう言ったのだろうか。
僕はミルの胸から自分の手を離し、出来る限り優しく言った。
「気を遣わなくてもいい。僕はそんなつもりでここに居るわけじゃないんだから」
ミルはまたごめんなさいと呟くと、僕の胸の中に恥ずかしそうに顔を埋めた。
僕は、小さいブルーのベッドの中で壊れそうな女の子を見ていた。そして少し乱れた彼女の髪から覗く白い耳を見ていた。僕はその小さな渦をとても綺麗だと思っていた。

まだその時はその幸せが永遠に続くものだと思っていた。僕は勿論、ミルだってそう思っていた。僕たちは何の疑いもなく自分たちにやって来る未来を信じていた。
何かが変わった訳じゃない。何かを忘れた訳でもない。ただ、時間が流れただけだ。僕の知らないところで、ミルの知らないところで、誰かが僕らの背中を押した。僕とミルはその空気の揺れに流されて、お互いを見つめているのにその視線のズレに気が付かずに、いつの間にか擦れ違って歩き出した。ただ、それだけのことだ。
僕は真っ黒な古いレコードを思い描いていた。僕の前でその円盤は同じところをくるくると回っていた。そしてその上を埃をくっつけた針が円の中心に向かって走っている。僕はその小さな針が円の中心に辿り着きそうになると、そっとまた円の外端まで運んでやる。僕は何回となくそれを繰り返していた。
でもミルに限っては僕は針を戻すことが出来なかった。僕たちは少しでも先に進もうとして針を戻さなかった。それがお互いにとって一番良いことだとお互いに思っていた。でもそれが間違いかも知れないと気付き始めた時、僕はその針自体を見失ってしまった。今から五年前、既に僕はあの針を無くしてしまっていたんだと思う。ミルと手を離した時に。

僕は薄暗いバーの中で天井から吊されたスピーカーから流れてくる音楽をこの目で確かめたいと思った。天井から流れる音はその四角く黒い箱から流れ出ているのだろうと理解出来ても、実際はその音を目にすることは出来ない。手を伸ばしてその箱を揺さぶってもメロディーは少しも狂わない。何処に針があって、その針はいったい今どの辺りを回っているのか分からない。
僕はいつまでもじっと外の世界を眺めていた。冷たい空気の中で色鮮やかに点滅する街の灯りを頬杖をつきながら一人眺めていた。

(11)

けたたましく鳴る携帯の音で目が覚めた。
リビングのテーブルの上に置いてある無機色の電話が壊れんばかりの音量を出して鳴り響いていた。
僕は二日酔いで割れそうな頭をもたげ、サイドテーブルの上の時計を見た。時間は午前九時を少し過ぎたところだった。僕は軟体動物のような仕草でベッドから這い出ると、そのままリビングまで行きその怒り狂った機械の声を取った。
「もしもし。居るのか?」
電話のベル以上にキイキイうるさい声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「もしもし、波野だ。聞こえてるか?」
「ああ、聞こえてるよ」
僕は、受話器を耳から離しながら応えた。朝起きて一番聞きたくない声だった。
「何処に居たんだ。ずっと探してたんだぞ」
「何処にって、ずっとここに居たよ」
ズキズキする頭を抱えて僕はうんざりしながら携帯受話を握っていた。何で二日酔いの朝に波野からの電話で起こされなくちゃならないんだ。
「嘘だ。昨日もその前も電話したが居なかったじゃないか」
波野は電話の向こうから、俺はお前の保護者じゃないんだからな、ちゃんと居場所くらい教えておけよと、怒っている。
「編集長がお前に会いたいと言ってるんだ。この前の作品について新しい企画があるって言っただろう。何日も自宅を留守にするならちゃんと言ってくれよな」
彼はいつだってそうだ。自分の用件を言うだけで、こちらの都合や今の現状を確認しようとしない。
「嘘じゃない。留守はしていない。そうするならちゃんと伝えるさ。お前の電話のタイミングが悪かっただけだろ」
僕は編集長が会いたいという用件には答えず、波野の言いぐさに腹が立った。
「あとでこちらから編集長に電話する。そう言っておいてくれ」
波野が何か言い返してくるのを待たずに僕は電話を切った。
僕は、シャワーを浴び、心ならずも普段通りなら、たかが波野の電話くらいで腹を立てることもなかったと昨夜飲み過ぎたことを反省した。そしてオフホワイトのチノパンに糊の利いたブルーのシャツに着替えた。皺くちゃのベッドを整え、寝室とリビングの窓を開けて新しい風を入れた。冷蔵庫から冷えたペリエを取り出し、一気に喉に流し込んだ。
何か結論が出るまで動かない方が良いという時もある。でも、それはいつか結論が出るということが分かっている場合だけの話だ。結論がいつ出るか分からないのに、何もしないで動かないでいることは、生きているのに呼吸をしないのと同じだ。何も新しいことを吸収できない。解決する為の手段や方法を何ひとつ見つけることが出来ない。
時計のネジを巻こうと思う。
ミルのことを考え、自分の中に空いた穴に意味を詰め込む為に、時計のネジを巻こうと思う。時間は前に進む。ネジを巻けば巻くほど時は前へ進む。自分の時計のネジを巻けば良い。誰かに巻かれるのではなく、自分で時を刻まなくてはいけない。止まったままの針では過ぎた日のことは分からない。

その日の午後、編集長を訪ね仕事の打ち合わせをした。新しい企画は僕の作品を中心に航空ショウのイベントを行うというものだった。テーマとなるロゴからポスター、機体に塗る絵柄のデザイン、スタッフの衣装、キャンペーンなど関連するあらゆるノベルティまで、僕の作品を統一して使うという異例の企画だった。僕は二つ返事でその仕事を請け負った。通常ではイベントの意匠など全てのデザインを決める場合、何の競合もなく個人のデザイナーやイラストレーターに任せることはほとんどない。中型の展示会などでもオープンコンペで決めるのが普通だ。今回の航空ショウに僕の作品が抜擢されたのは、主力スポンサーがイベントのデザインを公募しようと考えていた時に、米井さんが僕の写真集を持ち込み、直接売り込んだ結果、スポンサーが気に入って僕を指名してきたというのがその理由だった。
僕は編集社の会議室で広告代理店の三瀬というベテラン担当者を紹介して貰い、航空ショウの内容から必要とされるデザインがどれくらいの大きさや量であるのかを大まかに聞いた。いつまでにデザインを起こし、いつまでにイラストを描いたら良いかなど、頭の中にある程度イメージが浮かぶまで、その材料となる情報をひとつひとつ集めていった。そしてその中心となる主ポスターについては、遙か高い空を望む奥行きのない空間を想像させる風景という考えで僕と三瀬さんの意見が一致し、南の国の岬から眺めた空と海の絵を使用することにした。新たに描き起こすのではなく、あのファームス入り江を望む岬の絵を使うことにした。
こちらサイドの窓口は編集社の米井さんに決まった。僕は作品を描くことに集中したかったし、様々な雑多な打ち合わせは誰か他の人に頼みたかった。波野は自分の出世を思ってか是非自分をと申し出たが、僕が米井さんを指名した。写真集を創ったのが米井さんであることは主力スポンサーも知っていたので、広告代理店も含め何の問題もなく決まった。
今後の大体のスケジュールを確認し、先ずテーマに沿ったロゴを考えた後、主ポスター以外に新たに五点風景画を描き起こすことから始めることにした。それを元に関連する各キャンペーン商品を三瀬さんと米井さんが担当し、素材や形を順次決定して行くことにした。
年末から年明けに掛けて、僕は航空ショウに向けた作品を描き始めることを約束した。新しく描き加える風景画は通常使うイラストボードではなく、キャンバスを使用することにした。三瀬さんは僕の写真集を見て、麻布の上に塗り重ねられた青色の空がとても気に入ったのですよと言った。ベッタリと厚く塗られた部分と、ナイフで削り取られた部分が交叉する数え切れない程の青色の重なりが何故か好きになったのですと。
「米井さんが強く推されたのが分かる気がします」
三瀬さんは、航空ショウは遅くとも夏前にはやりたいと言った。
「テーマは、子供たちを喜ばせることを一番の目的としたいのです。曲芸飛行の他に、実際に子供達やその家族を乗せて色々なコースを飛んで回るツアーも出来ればやりたい。だから、子供たちが大好きな季節にやりたいのです」
三瀬さんは感じの良い男だった。痩せ形で背が高く、いかにも広告代理店に勤めていますといった風体なのに、それを鼻にかけるところが少しもなかった。今日はイベントの提案をお受け頂くのが主な目的でしたから、ここまで決めて頂けるとは思いませんでした、これからは焦らずゆっくりとやって行きましょうと、彼は言った。
「皆さん、お互い人を好きになることから始めましょう」
三瀬さんは少し照れながら笑った。
僕たちは握手を交わし会議室の前で別れた。僕は編集長にお礼を言いにデスクに寄り、これから暫くお世話になりますと頭を下げた。編集長は笑いながら、当分はうちの社にベッタリで浮気する時間もないなと、僕の肩を軽く叩き、米井をもう一段大人にしてやってくれと言った。
「また一緒にお仕事が出来て嬉しいです」
と、米井さんは編集長の隣で僕に向かって微笑んだ。一ヶ月前と変わらない優しい澄んだ目をしていた。
「約一ヶ月間、僕が留守をしている間に随分と色々と話が進んでいたのですね」
「勝手に話を進めてすまない」
編集長が頭を下げた。
「でも、良い話だろう。こいつのやり方は強引だがある意味すごい。作家の承諾もなしに勝手に話を進める無鉄砲さはあるが、俺も納得した良い仕事だ。許してやってくれ」
「許すも何も、感謝しています」
僕は改めて米井さんの企画力、営業力に脱帽した。
「一度、お礼に食事にでも誘いますよ」
僕は一ヶ月前に会った時よりも更に短く切った彼女の髪を見ながら言った。彼女の耳にはあの時と同じ貝殻のイヤリングがぶら下がっていた。
「何もお礼なんて要りません。私こそ勝手に、ご相談もせず話を進めてしまってすみません。お断りされたらと心配ばかりしていました」
彼女はこの仕事を僕が引き受けるかどうか本当に心配だったのだろう。話が前に進んでほっとした表情をしている。
食わせて貰える時には食わせて貰っておけ、遠慮すると次はないぞと、編集長は笑い、会議があるからまたなと、部屋を出ていった。
僕は米井さんを誘い、廊下の突き当たりにある休憩室に向かった。
六畳程の大きさの休憩室は壁に飲み物の自動販売機が並び、入り口の反対側に大きな窓があった。部屋の真ん中に脱臭と排煙装置のついたテーブルがあり、それを囲むようにベンチが四つ置かれていた。
僕は缶ジュースを二本買うとその一本を米井さんに渡し、煙草に火を点けて外の景色が見えるようにベンチに座った。米井さんは僕の隣に腰掛け、勝手なことをしてすみませんと改めて頭を下げた。
窓の外にはゆっくりと暮れて行く空の景色が見えた。薄っすらと紫色に変わり始めた空には今日は雲がなかった。陽が落ちてもオレンジ色に染まる雲はひとつも流れていなかった。
「それではお礼ではなく、僕自身があなたと食事をしたいと言ったら付き合ってくれますか」
と、僕は尋ねた。
米井さんは膝の上でまだ開けていない缶ジュースを転がしながら、少し考えたあげく、
「じゃあ、あのホテルの部屋でルームサービスをご馳走してください」
と言った。
「あのホテル?」
僕は米井さんの膝の上の缶ジュースを見ながら聞いた。
「あのいつも打ち合わせに使っていたホテルですか。もっと、別な、そう滅多に行かないところが良いんじゃないですか?」
僕はそこまで遠慮しなくても良いのではないかと思ったが、彼女は違った。
「行ったことのない綺麗なレストランで、見たこともないお料理を頂くより、あのホテルでいつもと同じ決まった時間にルームサービスで食べることが嬉しいんです。ね、それでお願いします」
彼女は、下を向いたまま何かに頷くように微笑みながらそう言った。
「分かりました。いつもの時間にデートしましょう」
僕も何故だか分からないが、有名な高級レストランよりも、その方が二人に似合っているような気がした。
人と人の繋がりはこんなところにあるのかも知れない。毎日色々な人が僕の横をすり抜けて行く。目が合う人もいれば、全く気付かず擦れ違う人もいる。言葉を交わす人もいれば、どんな声音か知らないまま離れていく人もいる。飾り立てないと自分を表現出来ない人もいれば、裸の自分しか見せられない不器用な人もいる。どれがその人らしいのかは分からない。時には自分が嫌う自分を、他人は気に入ってしまうこともある。誰が僕の何処を見ているのかは分からない。でも自分が正直ならそれで良い。
彼女は缶ジュースのプルリングを起こすと、
「とびきりの贅沢をしますよ」
そう言って、僕の方を見て悪戯っぽく笑った。
窓の外は、やっぱり雲が流れていなかった。でも空はとても美しい薄紫色をしていた。遙か彼方、僕の目線と同じ高さに一羽の白い鳥が飛んでいるのが見えた。
僕は、米井さんは何故貝殻のイヤリングをしているのだろうかということが急に気になった。

(12)

僕が航空ショウ向けの絵を描き始めてから数日が過ぎ、クリスマスまであと二日となったとても寒い朝、リックから手紙が届いた。
僕は突然の手紙に驚いたけれど、すぐに嬉しさを感じとても懐かしい気持ちでその封を切った。メールではなくわざわざ手書きの手紙ということも嬉しかった。僕は部屋の真ん中のソファーに座りリックと過ごした暑い季節をゆっくりと思い出していた。
僕の部屋の中は適度な温度に暖められてあって、曇った窓は外の冷たい空気から僕を隔離してくれていた。僕はアクリル絵の具の付いた筆をバケツの中に放り込み、未完成の景色にリックと過ごした日々を思い重ねていた。白いキャンバスにはヨットの帆をイメージしたオペラハウスが描かれていた。
僕はマグカップに少しぬるめに温めたミルクを注ぎ、リックからの突然の便りをその温かみと一緒に自分の躰にしみ込ませ始めた。
彼はクセのある文字で僕に自分の近況を事細かに書いていた。今は、とても暑い夏の真ん中で誰もが日焼けをして真っ黒だ、こっちの国は太陽が好きな人たちにとっては楽園だから、この季節は自分の商売も順調だと。海に出ると背丈を越す程の波が現れ、波乗りをするものたちにとっては文字通りパラダイスだよ、ツアー客の中には勿論海が好きな人たちが多く、時間が余れば誰も行かないダイビングスポットに連れて行けと言ってくる客も増えた、自分もツアー客を案内するだけではなく、最近は老体にムチを打ってダイビングライセンスを取った、ツアー客に混じって海に潜るのもなかなか良いもんだ、知らない世界を一つ覗いた気分だよと。そしてその後のオプショナルツアーも客からリクエストしてくるし、今は全てが順調に動いているよと。でも、ツアーの中には相変わらず日本人が多いし、彼らはいつも笑いながらツアーを楽しもうとはしているのだろうけれど、彼らはいつもと同じようにいったい何に気を遣っているのか、自分自身を楽しむのは下手だ、いつも誰かの目を気にしているみたいだ。リックは、そんなふうに皮肉混じりに僕に伝えていた。けれども以前より自分は日本人が好きになった、とも書いていた。そして自分は時間があれば今も変わらずあの岬を一人走っていると。「あんたがいなくなっても俺は相変わらずあの岬までランニングをしているんだよ」そうリックは書いていた。「あんたが見つめていたあの空は今も変わらずとんでもなく綺麗な夕焼けを見せてくれるよ。勿論、朝焼けに映る海だってあんたが想像するあんたの記憶通りの色を見せてくれている」と。
僕はリックと出会った岬を思い出していた。僕は彼と過ごしたガードレールにポツンと腰掛けていた。
朝、僕の目に映る海は昇りつつある陽の光に照らされて、薄い紫色に輝いていた。そして風に揺れる波はその薄紫色を周りの深い蒼色の中に散りばめ、疎らな金色をつくってこれから始まる新しい一日を祝福していた。
僕は昔を振り返る時、いつも寒く冷たい季節ばかりを思い出していた。本当は暑い夏が好きな筈なのに、思い出すのはいつも灰色の冬ばかりだった。過去を思い、ミルを思い浮かべる時はいつも同じだった。それは何の表情もない灰色の雲が低く垂れ込める小さく狭い空と、決して笑顔を見せない人たちが歩き続ける見知らぬ世界ばかりだった。それらはいつも僕の目の前を通り過ぎていた。
リックは僕にいつか自分と出会った町を思い出すだろうと言った。それが良きにつけ悪しきにつけ、きっと振り返る時が来るだろうと言った。
僕は今、リックの顔を思い浮かべることが出来た。彼の声を思い出すことが出来た。彼と過ごした時間と、言葉と、その瞳の向こうに拡がっているであろう彼の人間としての存在を思い浮かべることが出来た。
僕はリックと一緒に通り過ぎた町の景色を思い出していた。
「あんたと出会った時よりももっとこの町は暑い夏になった。あんたと一緒に見上げていた夕焼けもいつもより鮮明に見えるみたいだ。あんたは何を思ってこの町に来たんだろうと考えることがある。あんたにとって、この町は旅の途中に立ち寄ったというだけの単なる通過点だったのだろうか。それとも他に何か特別の理由があったのだろうか。何れにしてもあの時言ったみたいにそれはあんたが分かっていれば良いことだ。でも、あんたがこの町に居たことは俺にとって意味があった。それをどうしても伝えたくなったんだ」
彼はあの広いテーブルに腰掛け、缶ビールを飲みながらこの手紙を書いていたのだろうか。
「俺はあんたを見て自分を見ているみたいだと言った。あれは嘘でも何でもなく、本当にそう思ったことなんだ。あんたは昔の俺みたいにとても小さくうずくまって見えた。俺がイーディと別れた時と同じような顔をしていたよ。でも初めてあんたを見た時から俺はあんたに何か特別の感情を抱いたんだ。あんたは少なからず俺に何かを訴えた。俺はあんたと出会ったことにその時運命を感じたんだ。大袈裟ではなく事実として。俺はあんたと出会ってもう一度昔の自分を思い出すことが出来るような気がした。あんたは決して自分のことを話さなかった。でも俺にとってあんたがどんな人間なのかは分かっていた。黙って絵を描いていたあんたを見て段々と自分を思い出す内にね」
僕はリックの真っ赤な自転車に乗り夕暮れの町を駆け抜けたことを思い出していた。その町の道路は広く、暖かな風がいつまでも僕の周りにまとわりついていた。僕は蛇行するように自転車をこぎながらいつまでも暮れて行く町の中を走り続けていた。僕はその時、ひょっとすると風の通り抜けた道を覗けるかも知れないと感じていた。
リックは手紙の中でこれからもう一度やりたいことがあると書いていた。
「もし出来るのであれば、この暑い季節が終わらない間にもう一度空を飛んでみようと思う。まだ間に合うのであればね」
僕はリックと出会った時に、もしかすると僕はこの男に救われるかも知れないと思っていた。彼はその時に僕に対して何を思っていたのだろうか。
「俺はあんたが黙って朝陽を見ている横に腰を下ろした。その時あんたは何も話し掛けなかった。見知らぬ男が突然自分の横に居るにも拘わらず。俺は朝陽を見ながらあんたのそんな不思議な態度が気に入っていた。あんたと肩を並べていることが何か決められたことみたいに気持ちが良かったんだ。それはまるで何かに手繰り寄せられるように自然なことだった。あの時見た世界は本当に綺麗だった。それからは言葉はいらなかった。後はあんたが知っている通りだ。俺とあんたは少しだけれど深い時間を共有したと俺は思っている」
リックは手紙の中で僕に礼を言った。そして、何故もう一度空を飛ぼうと思ったのかを書き綴っていた。
リックは僕を見て何故か自分以上に自分を見ているようだと感じた。僕は決して何も彼に言わなかったけれど、彼は僕の中に自分を探していたのだろう。そして自分の昔を黙って聞いてくれる僕にまるで鏡にでも話し掛けるように彼は語り掛けていた。リックにとって僕は彼を自分自身に回帰させる一つのきっかけになったのだろう。彼は何故か僕を見て自分を思い出した。大好きな空を飛び回っている頃を思い出した。彼は確かに今の自分が嫌いなわけじゃないだろう。それでもあの頃の自分の方が自分らしいと思ったのではないだろうか。彼はもう一度空を飛んでみようと思うと僕に告げた。それが一番自分に似合っているからと。
僕はそう書いたリックの顔を思い浮かべ、何故かとても嬉しくなった。それは遠い昔に無くした宝物をふと見付けたような懐かしさに似た思いだった。
リックは、やっぱり自分は空がとても好きで大事に思っているんだと書いていた。そして、イーディのことと同じようにね、とも。
リックは、長い手紙の中にイーディのことを書いていた。
「俺は多分今でもイーディのことを愛しているんだと思う。あんたは分かってくれていると思うけれど、それはこの先誰とも結婚しないとか、誰とも恋をしないとかそういうことを言っているわけではなくて、俺は自分の中のイーディをいつまでも忘れずに生きて行くことが出来るってことなんだ。これはとても大事なことで、イーディを思いながら生きるってことと、忘れずに生きるってこととは違うんだってことを俺はやっと理解出来たような気がするんだ」
誰かを思いながら生きることと、誰かを忘れずに生きることの違い。
僕は、またリックと過ごした僅かな時を思い出していた。僕の目の前には何処までも限りない空が拡がっていた。僕にとってとても心地の良い陽射しと風がそこにはあった。
「あんたは今までに誰かを好きになったことがあるだろう、誰かを愛したことがあるだろう。それは勿論当たり前のことかも知れないね。いや、俺が言いたいことは、あんたが誰かを好きになった時にあんたは次に何を思うだろうかってことなんだ」
リックはまるで僕が隣に座っているかのように、僕に話し掛けているかのように文字を連ねていた。
「あんたは好きになった相手に対して先ず最初にどういう行動に出るだろうか。あんたはきっとその相手に告白をするかどうか迷うんだろうと思う。陰から見ているだけでは耐えられずにね。いや、俺もそうだったよ。あんただけじゃなく、みんなそうだと思う。だけど、世の中には臆病者もいて告白も出来ずにいつまでも好きになった相手の後ろ姿ばかりを見つめている奴がいるものでね、それでその相手に気持ちが伝わらないんじゃないかと思っていつも心配しているのさ。もし告白しても自分は嫌われているんじゃないだろうかとまで考えてしまう。最後には好きになった相手の良さも何も忘れて、自分の悩む気持ちばかりに心が動いている。どうすれば良いんだろうってね」
僕はリックの告白に似た手紙をイーディのことにだぶらせて読んでいた。リックは自分のイーディに対する気持ちを僕に正直に伝えたかったのだろうと思う。
「でも、ただ黙って陰から眺めているだけだとしても、それは結局は告白をしたことと同じことなんだ。少しも恥ずかしいことじゃない。誰かに告白することや恋人をつくるってことが必ずしも勇気があるってことじゃないんだ。俺はイーディに出会ってそれを知った。つまりは相手に自分は何をしてもらったかってことなんだ。あんたはもう分かっているのかも知れないけれど、俺は彼女にそれを教えてもらった」
僕が何を知っているというんだい。ねえ、リック、あんたの方が僕にたくさんのことを教えてくれたよ。
「俺は思うんだ。人は出会った時に全てのことをその相手からもう貰っているんだよ。だって、そうだろう。俺はイーディと出会った。それで俺は彼女に恋をした。人を好きになったんだ。でも、もし彼女と出会わなかったら俺は恋なんてしていなかった。違うかい。俺は彼女と出会ったことで人を好きになるということを自分の心の中に覚えた。自分の中に人を愛おしむ気持ちが生まれたことを知ったんだ。それだけでもう充分彼女にして貰っているんだ。自分が好きになったお返しはその時にもう貰っている。それ以上何かを相手から期待するなんて贅沢だよ」
僕はソファーに深々と腰掛けてリックからの手紙を読んでいた。そして同じ様なことをミルが僕に言っていたことを思い出した。
「あなたと出会ったことで私は満足なの」
ミルが言った。
「誰もがみんな人から好かれたいと思ってる。でも私はあなたに好かれようとは思わない。もし好きになってくれるのならそれは嬉しいけれど、でもその前に私はあなたと出会ったことだけで満足なの。あなたと知り合い、あなたを好きになったという事実に私は満足なの」
僕の部屋の中には僕一人だけしかいなかった。四角い箱の真ん中で僕は円く小さく座っていた。動いているものは他に何もなかった。描きかけの絵や本やカーテンや床に散らばった写真や部屋の片隅にある観葉植物や電話機なんかは、静かに音も立てずに暖められた部屋の中に溶け込んでいた。それらは僕に何も話し掛けては来ない。
「好きになったことだけで良いんだ。自分の中にその人を好きになったという気持ちが生まれただけで。人を好きになるという感情をその相手から貰ったんだ、その人のお蔭だよ、そうだろう。後は告白をする、しないの問題じゃない。後はこっちがお返しをする番なんだ。相手が一番幸せになれることを精一杯ね。俺はあんたと出会って昔の自分を思い出したんだ。イーディと出会った頃の俺を。あんたと俺は何も言わなくても良い距離でお互いの生活を楽しんだ。それは本当に良い距離で居心地が良かった。あんたがどう思っていたかは知らないが、俺はあんたと話をする俺自身が心地良かったんだ。その時の俺はイーディと生きていた時代を思い出していた。そして彼女が俺に与えてくれたものを噛みしめていた」
僕はリックの顔を思い出していた。優しい目尻のしわを思い出していた。ねえ、リック、あんたはいつまでも僕の顔を覚えていてくれるだろうか。
「俺はもう一度昔のように自分らしく生きてみようと思ったんだ。あんたと別れてからそう考えた。それが俺らしいとね。俺はもう一度空を飛んでみようと思う。そして出来ればまた誰かを乗せてこの町を見せて回ろうと思う。イーディのことにおいても、俺は彼女を思いながら生きて行くよりも、忘れずに生きて行くことの方が大事だってことに気付いたんだ。彼女が俺に何を与えてくれたかということをね」
窓を閉め切った部屋の中の空気が少し揺れたように感じた。四角い部屋の片隅でクワズイモの葉が微かにカサっと音をたてた。僕はリックの手紙から目を上げ、その緑色の大きな葉を見つめた。でも目を向けたとたんにその観葉植物はまた何事もなかったように押し黙ってしまった。
僕はまた手紙に目を落とし続きを読んだ。リックは手紙の最後のページにこう書いていた。
「ありがとう。あんたと出会ったことを俺は心より感謝している。あんたがそこに居る限り俺はここに居るよ。いつかまた、会えたらと思う。いつかきっとあんたの町を訪ねて行くよ、それまでは俺のことを忘れないでくれ。もし、この先あんたが何かに悩んだり自分の居場所を探すようなことがあれば、俺を思い出してくれ。俺からあんたに言えることはたった一つ、確かなものを見つけるまでは変わってはいけないってことだ。確かなものを見つけるまでは、すべては繰り返すだけなのだから。それを覚えていてくれ。そして、そう気付かせてくれたのもあんただってこともね」
それじゃ、また。リックの手紙はそれで終わりだった。
僕は彼からの手紙を送られて来た時と同じようにちゃんと折り直して封筒に入れた。そしてその手紙を両手に持ったまま自分の部屋の中を見回した。部屋中の何もかもが僕の方を向いているように感じられた。全てのものが聞き耳を立てて僕の話す言葉を待っているみたいだった。
僕は部屋の隅でじっと僕の声を待ち侘びているクワズイモに向かって声を掛けた。
「君は自分を愛するのと同じくらいに誰かを愛したことがあるかい?」
クワズイモは今度は僕の前で小さく葉を揺すった。僕にはそう見えた。でも、それがどちらの答なのか僕には分からなかった。
僕はリックの手紙をゆっくりとテーブルの上に置き、ソファーにもう一度もたれて少し微睡んだ。どれくらいだろうか、僕は全ての時間を巻き戻すように目を瞑った。何かを忘れようと、何かを思い出そうと、静かに、でも深く瞼を閉じた。
時間は何人にも平等に存在するのだろうか。それだけは信じていいのだろうか。誰にもその人だけの時間というのがあって、自分で好きなようにその時間を使えるのだろうか。そうだとしたら、僕は今、その時間を自由に使いたいと思っていた。いつ進めれば良いのか、いつ巻き戻せば良いのか、僕にはまだはっきりと自分の時間の使い方が分かっていないのかも知れない。それでも僕は、今出来るならば自分の時間を使いたいと思った。
僕は自分の好きな時の中でいつまでも笑っていたいと思っていた。幸せな暖かい気持ちをいつまでも抱えていたいと思っていた。それとも、遙か遠く深い湖の中でいつまでも枯れるまで涙を流していたいと思っていた。

僕はソファーにもたれたままいつの間にか深い眠りにつき、そして悲しい夢を見て目を覚ました。それはとても悲しい夢で目が覚めた後も暫く涙が止まらなかった。
それは、リックの思い出がそうさせたのかも知れなかった。でも、僕の中に何処かミルに会いたいという気持ちが今でもあったからなのかも知れなかった。いや、むしろその気持ちの方が正解のように僕には思えた。自分では気付かない内に僕は彼女ともう一度会ってちゃんと話をしたいと思っていたからなのかも知れない。現実には無理でも気持ちの奥底でそれを望んでいたのかも知れない。

(13)

僕たちは夢の中で円の中心に向かって歩いていた。
何月だろうか、とても良く晴れた日で夜空に一面の星が瞬いているのが分かった。僕たちの周りには薄紫色の小さな花が月の明かりに照らされて咲き乱れていた。その花の間を細く真っ直ぐな道が何処までも伸び、遠くに見える丘の手前で僅かに右に曲がっていた。そして小道はその丘の麓の小さな湖のすぐ脇を抜け、湖をぐるっと囲むようにして丘の向こう側に続いていた。
誰と歩いていたのかは分からない。僕の隣にいた人の顔をどうしても思い出すことが出来ない。でも、僕は確かにその道を誰かと歩いていた。
僕たちは薄暗く仄かに蒼白く見える小道を歩いていた。小道の周りは眠る草や花が肩を並べるだけで、僕たちの膝よりは何も高いものが存在していなかった。
僕たちはただ広いだけの空間の中を何かに誘われるように、何かに連れ戻されるように、そして知らない誰かに背中を押されるまま、遠くに唯一光るものに向かって歩いていた。闇の中に唯一真っ白な光沢を見せる何かに僕たちは奪われ、何も考えることなくお互いに手を握り合ったまま足を動かし続けていた。
僕たちが辿りついたところは緩やかな丘の麓の湖だった。
小さく綺麗な円を描くその湖は僅かに波をつくり、月の仄かな明かりが照らす波紋を静かに岸に届けていた。透明な水は湖岸の砂を湿らせて、そよぐ草に命を与えていた。小石が洗われる微かな音が聞こえ、闇は静寂に支配されていた。湖を覆う闇は何ものにも屈せず何ものにも邪魔をさせないかのようにじっと息を潜めていて、湖の背後に迫る丘さえも暗く包み込んでいた。そこに実際になだらかな丘が続いていたのかどうか僕は自分の記憶に疑いを持った程、辺りはあまりにも静かで色が無かった。
僕は足元の小石を拾い、湖の真ん中を目掛けて投げ込んだ。勿論、僕の投げた小石は湖の真ん中まで届く筈はないけれど、月明かりに揺れる遠い湖面にポチャンと小さな音を立てた。僕は自分のつくった波紋が自分の足元まで届くのをとても穏やかな気持ちで見つめていた。
その時、僕の隣にいた人がすっと湖に足を滑り込ませるのが視界の中に入った。彼女は、いや彼かも知れないけれど、僕が声を掛ける間もなくあっという間に湖の中に入り込んで行った。僕が唖然としている間にもう肩の辺りまで水の中に浸かり、僕が何か言葉を思い付く前に、その顔をたっぷりとした水の中に沈み込ませた。そして彼女は、僕が息の詰まる思いでやっと、「ねえ」と声を出した時には、もう跡形もなく湖の中に消えていた。
それはまったくの一瞬の内に起こった。音もなく、まるで油を引いたみたいに滑らかに、そして静かに起こった。僕は自分の目を疑い、暫くは湖面から目を離せなかった。でも僕が見下ろす湖面にはもう何の波紋もなく、ただ月明かりに美しく輝く水面が見えるだけだった。
僕は自分の両肩を抱き、夜空に向かって大声で叫んだ。何を叫んだのかは覚えていない。ただ、いつまでも天に向かって声を出し続けた。そして、声が嗄れるまで叫び続けた僕は空から目を離し、瞼をしっかりと閉じると両手を自分の耳に当て、何も聞こえないように強く力を入れた。僕は何も見たくなかった。何も聞きたくはなかった。すべてのものから離れ、このままいつまでもじっとしていたかった。
でも、僕にはそれは許されなかった。僕の耳には、たった一つ自分の手のひらから微かに聞こえる自分の小さな心臓の鼓動の音が聞こえていた。
僕は消え去った誰かの顔をずっと思い出していた。音もなく消えた彼女の顔をずっと思い浮かべていた。
彼女は、何処から来て、何処へ行ったのだろうか。彼女は誰なのだろう。そして僕はこの先何をすれば良い。何処へ向かって行けばいいのだろう。
僕は円の真ん中にいた。限りなく果てしない世界の中で、小さく、ぽつんと・・・。

何故、夢を見たのか僕には分からなかった。そして結局その夢の中で誰と歩いていたのかも。
僕は夢から覚めた後暫くの間、じっと天井を見上げていた。そこにはただ灰色をした壁があるだけで何も現実的なものは存在しない筈なのに、僕の目の中にはあらゆる事実が映り込んで見えていた。ミルの顔や交わした言葉、彼女の声や一緒に歩いた街なんかが次から次にまるで走馬燈のように現れては流れて行った。
忘れることが良いのだろうか。忘れてしまうことがすべてなのだろうか。
僕は確かにもう一度ミルに会いたいと思っていた。五年前に離れた彼女といつか会って話をしたいと思っていた。たぶんそうすることで僕は自分の中の窪んだ穴に意味を詰め込むことが出来るのだろうと思っていた。だから彼女に会わない限り開いた扉に鍵を下ろすことは不可能だと考えていた。でも、きっとこの先僕たちは再会することはない。お互いに今居るところが分かっていてもどちらかが相手を訪ねるということはしないだろう。僕にはそれが分かっていた。だからこそ、自分の中の抜け落ちた時間は自分一人で埋めなくてはならなかった。自分自身でそうしなければならなかった。
でも僕にはそのことが分かりながらも何処かで彼女に会いたいと願い、また会えるような気がしていた。もっとも、それは全くの偶然でしか可能性はなかったけれど。何故なら僕は自分の意識において自分からミルに会いに行くということは決してしないだろうから。それはミルも同じ気持ちだろう。僕たちは納得しながらあの五年前に手を振ったんだ。決して幾つかの選択肢の中から選んだというわけではなく、決められた運命の上をなぞるように僕たちは別々に歩き出した。それが自分たちの決まった道だったんだ。その時だけは、僕たちは自分自身の手で運命のねじを巻いた。誰にも背中を押されることなく、顔のない人たちに肩を組まれることもなく、僕たちはそれぞれの道を自分自身で見つめ始めたんだ。
今もその道が間違っていたとは思わない。何処かで曲がり角を間違えたとも思わない。ただ、この五年間、自分が進んで来た道の脇にどういった標識があったのかそれを知りたかった。僕自身のことよりミルがどんな標識を見て歩き続けて来たのか、彼女は全て納得した中で今まで歩み来られたのか、それが知りたかった。僕はミルのことが好きだったし、彼女も僕のことを愛してくれていただろうから。
大学を卒業しても、僕たちは何処にも就職をしなかった。その時の選択としてそれが一番だと思っていたからだ。別に食べる為にだけ生きて行くのであれば何処かで働く必要などない。僕たちはモラリストでも何でもなく、社会的にシステマチックされたものの中でしか生きて行けない程弱くはなかった。
確かに僕たちは自分たちの枠の中だけで物事を見ていたし、自分たちの意志を優先して全てのことを考えていた。もし僕たちの目の前に絶対的なオピニオンリーダーが居て、彼が僕たちに向かって何かをそっと耳打ちしていれば、少なからず僕たちは何らかの影響を受けていたのかも知れない。でもそれはある意味で可能性があったということだけで、実際は僕たちはやっぱり自分たちの枠の中で生き続けた。
僕たちはお互いの生活を尊重し何をするにも自分のペースを守っていた。僕たちはそれぞれの時間の中で、それぞれの空気の中で暮らしていた。そしてお互いの空いている時間にお互いを訪ねた。僕たちは顔を突き合わせお互いのことを報告し合い、お互いのことを真面目に考え合った。僕は彼女が僕の作品について何を思ったのかをちゃんと聞き、その代わり僕は彼女の作品に何を感じたかを正直に答えた。

或る日、ミルは銀杏の落ちる歩道を僕の腕にしがみついて歩いていた。誰もが肩を窄めコートの襟を立てながら歩いて行く中を、彼女は僕の方へ顔を上げ、白い息を吐きながらいつも笑っていた。僕たちは時間が許すのなら二人で出掛け、出来る限り自分に正直に生きようと心掛けた。ミルは僕の周りを腕を拡げて踊るように廻った。誰もがポケットに手を突っ込んで歩く中を僕とミルは素手で手を繋ぎ、お互いの手を暖め合っていた。
ミルは、歩道に寄せた黄色いタクシーに車椅子の男の子が乗り込もうとするのを見付けた。運転手は何とか少年を車椅子からタクシーの中へ乗り移らせようと必死になっていた。でも狭い座席になかなか乗り移らせることは難しかった。ミルは僕の顔を見上げると、「ちょっと手伝ってもいい?」と言うと、その黄色いタクシーまで歩み寄り、運転手と共にその男の子を座席に座らせるのを手伝った。何とか少年をタクシーの座席に座らせると運転手とその少年は同時にありがとうとミルに言った。でも、ミルはその少年に向かって満面の笑顔でたった一言、「元気でね」とそれだけ言うとペコリと頭を下げた。
「人と人の繋がりって分かる?」
ミルが僕の腕にまたしがみつきながら聞いた。
「人と人?」
「そう。人と人はどんなふうに繋がっているか考えたことがある?」
彼女は寒さでそうなったのか顔を少し紅潮させながら僕の顔を見ている。
僕はミルのいつもの悪戯っぽい目を大事な宝物でも見るように見つめていた。
「私ね、人と人の繋がりって円と円の結びつきだと思ってたの」
彼女は僕の目の前に両手の人差し指と親指で大きな円をつくった。
「円と円?」
僕はミルに聞いた。
「そう、円と円。ずっと私は、人は円みたいにくるくる回っているんだと思ってたの。自分が中心にいる円。その自分を中心にしてそれぞれの円は回っているの。それぞれの人がそれぞれにね」
ミルは寒いのか指でつくった円を解くと、僕の指に自分の指を絡ませた。ミルの手は凍ったように冷たかった。
「それで、円と円の集合体みたいに、それぞれの円が交わったところで人は会話をするの」
「その円と円の重なったところで?」
僕はミルに尋ねた。そして僕は彼女の手をしっかりと握り締めた。
「まるで算数か何かみたいだね」
「そう。でもいつも交わってるわけじゃなくて、それぞれの円は回っているから時々しか交われないの。誰かが私と話をしたいと思っても、私が反対の方を回っていれば交われない。会話は成立しない」
「じゃあ、今は僕とミルはお互いの円が接しているわけだ。会話が成り立っている」
「そう」
「ということは、いつも自分の円の反対側を回っていれば誰にも会わなくても済むんだ」
僕はミルの手を握り締めたまま自分のコートのポケットに手を突っ込んだ。
「でも、そうはいかないの」
ミルは僕の方を見上げ少し困った顔をした。
「円と円の結びつきだったらそれでも良かったんだけど、実際は円じゃなかったの」
「円じゃなかった?」
「うん。最近になって気付いたんだけど、円じゃなくて球だったのよ」
「球?」
僕は彼女の顔を覗きこみ、今度は何を言い出す気だと少し眉をひそめてその目を軽く睨んだ。
「別に茶化す気はないの。真剣にそう思っているの」
ミルは真剣な眼差しで僕を見上げた。
「本当は球と球だったの。球は一方向だけじゃなく色んな方向へ回るから自分では裏側へ隠れてるつもりでも直ぐにまた顔を出してしまう。誰にも会いたくないと思っていても知らない内に誰かと顔を突き合わせてしまうの」
「それじゃ、いつも嫌なことと顔を合わせていなくちゃいけない」
「ある意味ではね」
ミルは言った。
「それにその球だってきれいなツルツルとしたものばかりじゃないの」
彼女は小さい溜息をつくと、僕のコートのポケットの中で僕の手を握り直した。
「人によっては棘だらけの球の人もいるの。だから、その人と少しでも触れると痛くて仕方がないの。なるべくなら離れていようと思ってるのに、球は勝手に回って色んな人と接してしまう。表面しか触れていないのに誰かにひどく傷つけられてしまうことがあるの。その逆に誰かをとても傷つけてしまうこともあるわ」
「僕たちはどうなんだろう?」
僕は正面の銀杏並木を眺めながら聞いた。
ミルは、「そうね」と少し考える振りをして僕から離れ、僕の前で立ち止まると自分の右手で自分の顎を掴んだ。
「今のところは問題なしってところかな」
そう言うと、ミルはまた悪戯っぽい表情をして僕の方を向いて笑った。
僕は立ち止まっているミルの横に並ぶと自分でも顎を掴む仕草をして、少し笑いながらミルの肩を抱いてまた歩き始めた。
「私に人は球と球の繋がりだと教えてくれたのはあなたなの。私は自分の裏側でもあなたに会っているし、あなたの裏側にも私は平気で乗り込んで行ってる。それについて何も疑問は持たないわ」
ミルはまた僕のポケットに自分の手を忍び込ませて来た。
「でも、知らない内に僕は君を傷つけているのかも知れない」
僕はミルの肩に置いた手に少し力を入れた。
「見方によってはね」
ミルが言った。
「でも、それが心地良いってことだってあるのよ」
彼女はそう言うと、僕の肩にぴったりとその顔を寄せ付け、僕の胸の中で小さく微笑んだ。

(14)

人が人と会う時に、人はどれくらいの時間、仮面を被っていられるのだろうか。重い鎧を身に着けたままどれくらいの時を過ごせるのだろう。僕だって今度会う時が予め決まっているのであれば多少の仮面は被っていられると思う。ある程度は何をするか、何処へ行くか考えることは出来ると思う。時間に余裕があれば準備だって何だって出来る。でも、その一日を汗をかき仮面を被ったまま過ごした後、自分の部屋に戻って来て、その重い鎧を脱ぎ捨ててベッドに横になろうとした時、さっきまで会っていた相手がベッドに横になっていたらどれだけ驚くだろう。裸になり痩せこけた自分をさらけ出すことにどれだけ自信があるだろう。誰だって自分が一番かわいいと思っている。自分の嫌なところを隠し、少しでも相手に良い印象を与えようと嘘をつく。その鎧を脱ぎ捨てた自分を予期せぬところで見られたら、人は一体何を思うだろう。僕はそこにミルが居ても構わないと思っていた。初めからミルがそこに居るのなら何も仮面を被る必要はない。自分の裏側、つまりは自分自信であるという部分でさえ誰かに見せることが出来たならば、もう何も被ることはなくなる。僕にとってミルはそんな女の子だった。ミルもある意味で僕にそれを見ていたのだろうと思う。
それから一年位の時を過ごしただろうか。僕は突然もっと広い世界を覗きたいと言ったミルを追いかけることはしなかった。それは当たり前のことのように思えたし、僕にもミルにとってもそれは必要なことだと思った。その時の僕たちにとって何か問題があったわけじゃない。ミルはいつも僕といることを望んでいたし、僕も彼女と同じ空気を吸うことが好きだった。
でも、僕たちは何処かで今までとは違う世界に足を踏み入れたいと思っていたのかも知れない。僕はミルと話すことで自分を確認出来た。自分の考えが間違っているにしろ、そうでないにしろ、確かに僕は自分の意志を明確に把握することが出来た。それが違う人や違う場所であったなら、僕は何を感じるのだろうか。自分の顔を思い出すことが出来るだろうか。それを何処かで確かめたいと思っていたのかも知れない。いつでも僕はミルと肩を並べてものを見ていた。これからもいつでもそうしたい時にそう出来るだろうと思っていた。だから、それなら彼女と離れることがあってもそれは僕にとっては必要なことかも知れないし、ミルにとっても必要なことなんだろうと思った。

「ちょっと会って話したいことがあるの」
電話の向こうでミルはいつもの口調で言った。いつもの元気な声でいつものように昼食を何処に食べに行こうかと相談するみたいに。
「何?」
僕はいつものように寝ぼけながら何も考えずその素敵な声との会話を楽しもうと思った。見上げた壁掛け時計は午前八時を少し回ったところだった。
「電話だとちょっと話しにくいことなの。出来れば会えない?」
ミルは少しも澱みのないすっきりとした声をしていた。まるでずっと起きていたかのように。
「いいよ、分かった。適当に行くよ。でも何なの、改まって話さないといけないこと?」
「うん」
ミルは歯切れの良い口調でそう言った。
「会った時に聞く方が楽しみでしょ。きっと驚くぞ」
彼女は受話器の向こうでいつものように悪戯っぽい目をしているのだろうか。
「分かった。目を覚ましたら急いで行くよ。何か持って行こうか?」
「そうね、ワインが良いな。適当に。その代わり美味しいブランチを用意しとくから」
「うん、じゃあ」
そう言って僕は受話器を戻した。その時はその日が特別な日になるなんて思いもよらなかった。まさか僕とミルがもう二度と会えない日になるなんて。僕はどう思い出したってそんなことをこれっぽっちも想像していなかった。
丁度午後零時の時報が何処かの空から聞こえて来た時に、僕はミルの部屋のドアをノックした。ミルはいつもと変わらない笑顔で僕を迎えてくれた。
太陽は暑い季節に比べてそれ程高くまでは昇らない。何処か斜交いに僕たちのことを見ているみたいだ。全てのものは薄い光の中でぼんやりとしかその姿を現さなかった。寒く冷たい季節の中であらゆるものがいつもより小さく固まって見えた。ぼやけた光の中で煙突から流れる煙は直ぐに空の薄い灰色に溶け込んで行った。そして灰色の街の壁は同じような色をした空をいつものように四角く区切り、何の暖かみもない扁平な雲を僕に見せていた。その動かない雲の下、乾いた街の中は毎年同じメロディーが流れ、誰の為にあるのかもうすぐやって来る一日の為に、あらゆる無駄なものをそこら中に垂れ流していた。ミルはその世界から逃れるように僕を部屋の中に入れると直ぐにドアを閉めた。部屋の中は丁度良いくらいに暖められてあった。
僕たちはテーブルに向かい合って座り、買って来たワインを開け、彼女が用意した昼食を二人で食べた。そしていつものように僕たちはお互いのことを報告し、今何に興味があるかを語り合った。
彼女は今、石に興味があると言った。冷たく硬い石、脆く崩れやすい石、重く決して一人では動かせない石。何処か遠くから流れて来て誰かに拾われない限り誰にも気付かれない石。遠くからではみんな同じような形をしているように見えるのに拾い上げてみるとそれぞれが違う表情をしている石。
「ちょっと見知らぬ世界を見て回ろうと思ってるの」
彼女が突然僕にそう言った時、僕は驚きもせず、ごく自然にその言葉を受け入れた。本当に自分でも不思議な位、自然にその言葉を受け止めた。僕は何も言わずただ、うんと頷いただけだった。
ミルもそんな僕に驚きもせず、まるでそう予想していたかのように続けた。
「今度いつ会えるか分からないけど、それでも私は見知らぬ世界に行ってみたい。この国の反対側に何があるのかを知ってみたいの。それが自分にどういう影響を与えるのかは分からない。でも今の私にはそれがとても大事なことだと確信出来るの」
ミルは僕の正面から僕の顔を見て話していた。その瞳はとても綺麗に潤んでいて、まるで湖のように澄んでいた。
「どれくらいの間のつもりなの?」
僕は彼女の二つの瞳を本当に綺麗だと思いながらそう言った。
「分からない。でもこの地球の反対側に行って、自分の居場所の反対側を覗いたら帰ってくるつもり。心の球体の裏側の自分が知りたいの。そこにはどんな棘があって私は誰を傷つけ、反対に誰に背中を押されるのか、それを見てみたいの」
ミルは初めて僕のゼミに来た時のように目を輝かせていた。僕はそんな彼女を見て何故かとても嬉しくなった。あの時、彼女は肩までの髪を頭の後ろで結び、僕の目の前に突然現れた。そして何も言わず僕の作品をずっといつまでも見つめていた。「私は雲が好きなんです」と、ミルは言った。少し照れて微笑んだ彼女の顔が鮮やかに僕の瞼の裏に浮かんで来た。そのミルの顔は僕の瞼を突然湿らせた。僕は曇った目で彼女の耳に光るねじに似たイヤリングをとても懐かしい気持ちで見ていた。これから彼女はいったい何処でどんな雲を眺めるのだろう。
「今度逢う私はもっと素敵になってる」
ミルは立ち上がり部屋の隅まで歩いて行くと、窓を開けて薄い冬の陽射しに映る街並みを眺めた。そして暫く窓の外の世界に意識を集中していた。彼女は子どもの頃のようにまだ見知らぬ世界を想像していたのだろうか。あの時と同じようにすべてのものに色を着けようと想像していたのだろうか。ミルは何かを振り切るように顔を天井に向けると僕の方にくるりと振り向いた。
「でも、あなたのことは分からない。私自身どうなるのかが分からない」
彼女はそう言うと、その小さな肩を震わせて潤んだ瞳から涙をこぼした。初めて彼女は泣いた。決して涙をこぼすことのなかった彼女が初めて僕の前で涙を落とした。
ミルは何を恥ずかしがることもなく大粒の涙を流し続けた。彼女は、あなたのことで私自身がどうなるか分からない、と言った。明日からどうなるのかそれだけが分からないと。
僕は彼女の側まで行き、壊れそうな肩を抱くと彼女の小さな耳に唇を付けた。そして微かな消え入りそうな声でそっと呟いた。
「ありがとう」
ミルは僕に力一杯抱きつき、胸の中で大声をあげて泣いた。僕は指の一本一本まで彼女を感じ取ろうと彼女の背中を精一杯抱き締めた。ミルはいつまでも小さな肩を震わせていた。僕が力を緩めると崩れ落ちてしまうかのようにすべての存在を僕に預けながら。
甘いミルの髪の匂いの向こうに色褪せた灰色の街が見えた。僕はその冬の冷たい鈍色の街をその時だけは何故か陽に映えて美しいと思った。

(15)

航空ショウは年明けの五月の連休に執り行うことになった。
「飛行場を押さえましたよ」
三瀬さんが元気な声で電話を掛けてきた。
「随分と早い時期に取れたのですね」
僕は、いつもの通り作品を描く休憩にコーヒーを飲もうとソファーに腰掛け、まだ乾いていない空の絵を眺めている最中だった。
「これから忙しくなりますね。がんばって描かないと間に合わなくなっちゃいますね」
「はい、お願いしますよ。飛行場そのものは、今は民間の貨物用の飛行機やヘリなんかが中心に飛んでいる小さな処です。官民含めて申請や許可など、想像以上に手続きは大変でした。でも、一日のうち、丁度正午から半日使わせて貰えることになりました」
三瀬さんは、日程が決まったのが嬉しくて仕方がないという感じで、満面の笑顔で話している様子が受話器から聞こえる声で分かった。
僕はマグカップをテーブルの上に置き、青色の作品を眺めながら、
「もうすぐ完成します。年明けにはお見せできると思います」
と、言った。前回の打ち合わせから、僕は黙々と作品を描いていた。
「それは助かります。ポスターを完成させて、各ノベルティを作って、宣伝して。一部の機体にもテーマとなる絵をプリントしようと考えていますから。後は私と、米井さんとで何とかします。飛行場が決まると何か形が見えてきたようで嬉しくて仕方がないです」
三瀬さんは、一度飛行場へ御一緒しましょうと言った。見ていただいて色々アドバイスを頂けたら嬉しいですし、と。
ショウの内容を決めるのは僕ではなく、スポンサーと代理店の三瀬さんの仕事だ。僕がとやかく口出しをすることじゃない。すでに或る程度、計画は進んでいるのだろうし、今更変更出来るほど時間に余裕はない筈だ。でも彼は僕に何かアドバイスをと言った。彼らしいところだと思った。メールで済む連絡も、わざわざ電話を掛けてくるところにも人柄が出ている。彼は知り合った人を決して一人にはしない。
「ええ、行きましょう。米井さんも連れて」
僕は、そんな彼の暖かい気持ちに何故かほっとして、青い空の下に続く長い滑走路に立つ自分の姿を想像した。
「はい。スケジュールはまたご連絡します。年明けにでも、良く晴れた日に是非見に行きましょう」
彼は、これから細かい作業に入ります、色々とご迷惑をお掛けすることも出てきますが宜しくお願いしますと、さっきとは違う真面目な声になってそう言うと、では失礼しますと電話を切った。
僕は携帯を持ったまま、そのまますぐ米井さんに電話を入れた。三瀬さんから連絡があったことを伝えると、すでに彼女も連絡を受けたとのことだった。これから三瀬さんと会い、ノベルティの試作の打ち合わせに入ることになっているらしい。
今は丸く円が回っているのだな、と思った。誰も意識をしてはいないけれど、何処にも棘は見当たらない。それぞれの球体の、それぞれの滑らかな部分だけが触れあっている。誰かが回転を早め、誰かが歩みを止めると、何処かが捻れ、誰かの棘が背中に当たる。いつかはそうなるのかも知れない。でも、今は円い球体がゆっくりと回っている。
僕は部屋に並べられた新しい作品を眺め、そこに映る空気の距離を測ろうと思った。
ファームス入り江を見下ろす岬があった。ベネロング岬や、ロックスや、王位植物園の芝生があった。オペラ座越しに見える長いハーバーブリッジがあった。
四角いキャンバスの中には僕とリックが過ごした夏の景色があった。遙か高い空があった。手を伸ばしても決して掴めない、距離のない遠い青色があった。そして、角度を変え僕の耳元を通り過ぎて行った風に乗った、ミルの想い出があった。

すべては絵空事だったのだろうか。僕だけがひとりよがりの妄想を描いていたのだろうか。あの時、ミルは既にもう僕と会うことはないと確信していたのではないだろうか。心の何処かでもう二度と僕たちは手を繋ぐことはないと分かっていたのではないだろうか。五年前、僕に手を振った時にミルはある面で僕という棘の球体から卒業したのではないだろうか。彼女はすべて分かっていた。自分が進み行く方向と、何を置き去りにしなければならないかということを。
ミルはきっとこの五年間、自分で想像した通りに歩いて来たんだろう。道の脇にどういった標識があり何を目印に曲がって行けば良いのか、彼女は少しも間違えることもなく足を動かし続けたのだろう。そして、彼女はこの五年間通って来た道を振り返り、自分の歩んで来た道程を少し目を細めて眺めた後、道の脇に腰を下ろした。そして何か忘れ物を思い出したように僕に手紙を送り届けた。自分のことを知っているもう一人の人間に。
彼女は自分が進もうとした方向をまるで日記を捲るように、僕も同じように歩き続けただろうと確かめるようにあの手紙をポストに入れた。それは全てを確認する為だったのだろう。そして、万が一僕だけが立ち止まっていることがあれば、早く歩き出せるようにと僕に気付かせようとしてくれたのだろう。もう一度スタートラインに戻りなさいと。蓋の開いた扉をもう一度揺り鳴らし、ここから始めなさいと諭すように。
ミルにとってあの手紙は一種、最終的な心の拠り所みたいなものだったのだろう。五年前に書いた時に出さなかったのは自分の弱さを押し止めた証拠だ。そしてわざわざ書き直したのは、もうその手紙が完全に不要になったからだ。そして、万が一の僕のことを思ってのことだったのだろう。ミルにとってもう僕は必要なくなったのだろうし、僕にとっても私はもう必要ないのよと伝えたかったのだろう。
ミルの手紙には返事は要らない。きっと彼女はそう思っているだろう。そして僕も、彼女に対して返事を書くことはないだろう。

三瀬さんから電話を貰った翌日、カレンダーは十二月二十四日を指していた。
街は朝からクリスマスの準備で慌ただしい時を過ごしていた。街のあちらこちらで赤や緑のリボンが飛び交い、あらゆるショウウィンドが飛びきりの飾り付けを施されていた。意識のないマネキンが自分の意志とは裏腹にその年の流行の服を着せられ、好きでもない笑顔と表面だけの輝きを身にまとわされていた。
街を歩く大人たちは相変わらず自分の靴を見ながら俯いて歩き、今までの虚しさや苦痛を忘れた振りをして、家族の為だけにその日の自分を取り繕っていた。今日は全てを忘れよう。今日だけは自分のことを置き去りにしよう。全ては家族の為に。今日だけは許される。今日だけは全てを隠しても構わないと。
彼らの頭の上には、いつになく美しい乾いた水色の空が拡がっていた。でもその澄んだ空の片隅ではいつもの尖った風が舞っていた。冷たく意地悪な風は高い空から急に角度をつけて舞い降り、誰かのコートの襟を擦り抜け、隣の誰かの足下をかすめた。そして顔の無い人たちがそぞろ歩く脇を何度か旋回した後、また高い空へ帰って行った。
誰もが何かにつまずいていた。高く、そして少しでも速く足を振り上げているつもりなのに、誰もがみんな自分の残した足跡につまずいていた。その小さな窪みに足を取られ、いつまでも顔を上げて歩くことが出来ないでいた。誰かに背中を引っ張られるようにいつも後ろを気にしながら背中を丸めているだけだった。
それでも今日だけは違う。誰もがそう思っていた。今日は何もかもがすべて輝いて見えるんだと。この重い足跡もすべて輝いていると。
何処か街を見下ろせる高台にでも鐘が吊されているのだろうか、遠く微かな音色ながら聞き慣れた鐘のメロディーが乾いた空気を震わせていた。人々はそれぞれに僅かに顔を上げそのメロディーが聞こえてくる方向へ耳を傾けた。誰もが首を向けた空には白と水色の二色の風船が次々と放たれていた。顔のない人々は、いったい何に満足したのか少しだけ笑顔をつくった。
僕はそんな街から抜け出そうと思っていた。少しでも遠くへ離れようと思っていた。僕は低く埋もれた無表情の街をよそに、一人田舎を走る電車に乗り込んでいた。煩わしいものから逃れようと、ただそれだけを望んでいた。

遠い田舎を走る電車は、車両の硝子窓の向こうにそれぞれの生活を映し、変わり行く景色の中にすべての憂いを流していた。
とても澄んだ日だった。車窓から見上げる空は確かに灰色の雲が低く垂れ込めていたけれど、今が冬だとは思えない程とても穏やかで美しい風景を僕の前に見せてくれていた。
僕は自分の生まれた小さな町に向かっていた。鼠色をした瓦屋根が続く、小道の続く町に。サイレンの鳴り響く空き地と、煙の出ない煙突のある町に。そして、遠い記憶の中で僕を待ち続ける茶色く汚れた格子のある町に。
でも、どう考えても今はすべて記憶の通りに町が残っているということはないだろう。すべてが町の活性化や合理化の波に飲まれ姿を変えていることだろう。
僕はそれでも良かった。幼い頃に見た景色や匂いが例え消えていたとしても、僕はその土地に足を踏み入れたかった。何十年振りであろうとも、僕はその町の空をどうしても見上げたかった。僕にとってみれば、それは自分自身の折り返し地点になるような気がしてならなかったから。
僕が降り立った小さな駅はやはり想像していた通り昔の面影は全くなく、油引きの板で敷かれた床の代わりに冷たいコンクリートが敷かれてあった。二階建てになった駅舎の横には不要になった枕木で造られた柵に代わって、幾本にも編まれた鉄の網が線路に平行になって立ち並んでいた。駅前の広場にはたった一軒萬屋があっただけなのに、今はそこには綺麗に造成されたターミナルと大型の路線バスが客待ちの仕事を引き継いでいた。
僕はその町の変わり様に何となく苦笑いをした。想像していた以上に造り変えられた風景を前に、僕は少しの間佇んだまま動けなかった。
あの角を曲がればひょっとしたら。僕は暫く何かに取り付かれたように立ち止まっていたけれど、僅かな記憶にすがる思いで歩き出していた。あの角を曲がったところにはきっと僕の思い出がある。僕がこの町を離れた時と同じ風景が広がっている筈だ。僕は懐かしい景色を探すように、目に付くすべての角を曲がって行った。
でも、どの角を曲がっても、どの通りを通り過ぎても見覚えのある懐かしい風景は出て来なかった。どの曲がり角を過ぎても僕の記憶の中の町は現れなかった。
すべてが生まれ変わっていた。すべてが何処か遠い世界に流れ出ていた。形のあるものがすべてその形を失い、音もなく消え去っていた。古いものはその存在を恥じるように身を隠し、誰にも目立たぬようにと新しい仮面を被っていた。記憶の残るものはすべて奥深い押入の中に逃げ込み、誰にも目立たないように、誰にも覗かれぬようにと、新しい記憶をその上に貼り足していた。
僕の目の前には新しい町が広がっていた。
拡張されて整えられた道路と、白い壁を施された同じ形をした家が並んでいた。隣り合った同じ家には、薄っぺらい形だけの瓦屋根が並び、同じような恰好をした窓がたった一枚で外の陽射しを遮っていた。たった一枚の硝子だけですべてを遮ることが出来るのだろうか。
町の中には何処を向いても空き地などなかった。背の高い楠や、松の木もいつの間にか切り捨てられてしまったのだろう。季節を知らせてくれるものが何もなくなってしまった。古い工場の屋根も、煤で汚れた煙突も、何処にも存在していなかった。
何処に朝顔は咲くことが出来るのだろう。夏の朝に子供たちは何処であの美しい花を見ることが出来るのだろう。
石畳が無かった。僕が幼いころ駆け抜けたつまずきそうな疎らな道がなかった。そこにはもうどんな小さな虫も棲むことが出来ない。いったい何処を見て歩くのだろう。僕たちの子供は、砂の混じった道に宝物を探すのではなく、ただ灰色の道に無表情に俯くしかないのだろうか。
町は僕が知っているよりも何十倍にも立派に膨れ上がっていた。でもその代わり、僕にとってのほんの小さな懐かしい記憶さえもすべて消し去っていた。もう、何処にも僕の覚えている町は残っていなかった。
僕はまるで都会を真似たような小さな町を知らない誰かに背中を押されるように歩いていた。何故かは分からなかったけれど歩く僕の足はとても軽く感じられた。そこには僕の意志がなかった。だからかも知れない。僕はただふらふらと歩き続けていた。
懐かしい香りがすれば良いのにと思っていた。少しだけでもあの頃と同じ香りがすれば良いのにと思っていた。例えすべてがなくなったとしても、あの時と同じ空があの時よりずっと続いているのだとしたら、もしかすればあの頃の風が吹くかもしれない、僕は取り留めもなく、何の根拠もないままそう思っていた。

「不思議な人」
ミルが言った。
「あなたはあまり自分のことを話さない。でも、私にはそれが心地良い。あなたが黙っていても何を考えているか私には分かるような気がする。不思議だけど、でも私には心地が良い。だから私も自分のことをあまりあなたへ伝えなかった。甘えてたね。ごめんね」
何も変わりはないんだよ。僕でだって誰でだって。だってそれは普通のことだもの。誰とも何も変わりはないのさ。ただ、僕の横には君が居たということ。ただそれだけのことだよ。

僕は見せ掛けだけの新しい町を歩き続けていた。何処を曲がっても同じ顔をした風景ばかりが続いている町を目に焼き付けていた。そして自分が育った場所も分からなくなった平べったい町並みを心に刻んでいた。絶えず流れるすべての時の間と、何処かに置いてきぼりにされた僕の記憶を一つ一つゆっくりと数えながら。
僕は駅から離れた山側へ向かう道を歩いていた。その少しずつ勾配を付け始めた冷たい道を暫く登ったところで、僕は母親に手を引かれた一人の少女と擦れ違った。
少女は寒くないようにと母親に真っ白な毛糸の帽子を被せられ、チェックのマフラーをしてその短い髪のせいで現れた小さな首元を暖めていた。手袋をした右手で優しい母親の手を握り締め、そして左手には真っ赤な長靴の形をしたお菓子の入れ物を抱え、嬉しそうにじっとそのお菓子の靴を眺めながら歩いていた。
僕はポケットに手を突っ込みながら坂の上から下りてくるその少女をじっと見ていた。彼女は僕と擦れ違う時になってやっと僕に気付いた。そして僕と目が合うと擦れ違った後もずっと僕の方を見ていた。少しも恥ずかしがらず、母親に手を引かれたまま顔をこっちに向けたまま。そして顔をそれ以上振り向き切れないところまで僕の方を見た後、不意にニッコリと笑った。そしてまた自分の左手にある色とりどりの宝物に視線を戻し、自分の好きな目当てのものを探し始めた。
彼女の笑顔は本当に可愛くて素敵だった。彼女の頬は二つとも真っ赤な色をしていて、くるっとした丸い瞳がとても印象的だった。
僕は彼女の何処か懐かしい笑顔にとても暖かい気持を覚えた。僕は立ち止まって、通り過ぎて行った彼女の背中をいつまでもじっと眺めていた。白い帽子とチェックのマフラーをした少女は二度と振り返ることもなく、坂の途中を母親に連れられて静かに曲がって下りて行った。
君は何処から来て何処へ行くのだろう。誰と会い、何を想うのだろうか。いつか大人になるにつれて、いったい何をその心に刻んで行くのだろうか。
見上げた空は灰色の雲を少しずつ疎らにし、ゆっくりと暮れかかる空をその向こうに覗かせていた。
僕は、流れる冬の雲を目を細めながら見つめていた。何処までも続く縮れた雲を眺めていた。そんな僕の鼻先を湿った冷たい風がかすめていった。僕は空を見上げたままポケットの中から暖められた両手を出して自分の冷たい鼻を覆い、その手の中に息を吹きかけた。そしてもう一度ポケットに手を突っ込んでまたゆっくりと歩き出した。
僕は坂の上まで登り切ると振り返り、アスファルトに包まれた新しい町を見下ろした。
子供の頃には町は端から端まで歩いて行ける距離だった。でも、坂の上から見下ろす今の町には終わりがなかった。何処までも延々と灰色の道が続いていた。赤や青の瓦屋根が町の中を埋め尽くし、何処まで見渡しても僕の知っている鼠色の瓦屋根は存在していなかった。そこには白くて綺麗な壁がずっと同じように並んでいるだけだった。僕が見たい埃で汚れた茶色い格子などは、僕の思い出の中にだけ、そう遙か遠い記憶の中だけにしか存在していなかった。
空の隅で名前も知らない鳥が鳴いた。迷う風は軒先の枝をいくつも揺らし、茶色い枯葉を一つずつ千切っていった。枯葉はカラカラと僕の足下を通り過ぎ、僕は何もかも色褪せて行く冬枯れの季節にそっと取り囲まれていた。
僕は手を突っ込んでいたポケットの中から煙草を取り出し、何かを吹っ切るように深く喫った。そして僕は煙を見下ろす町に覆い被さるように吐き、続けて天高く灰色の雲に向かって吐き出した。

あの頃とは違う。僕はそう思っていた。あの茶色いガードレールに座り、吹き抜ける風に向かって煙を吐いていた時とは違うんだ。僕は少しずつではあるけれど歩き始めている。自分の行き場所に向かって足を動かし始めている。今見えるこの世界の中に僕の居場所がないとしても、それはそれだけのことだ。僕自身が分かっていれば良い。何を求めて何を置いて行けば良いかということを。
いつまでも迷っているわけにはいかない。僕自身の手で自分の背中を押すんだ。心の中で自分の行き場所を分かっているのであれば、今からでも歩き出せる。

確かなものを見つけるまでは、変わらないこと。
リックは僕のことを自分を見ているみたいだと言った。自分を思い出すことが出来ると言った。僕は彼を見て、自分を救ってくれるかも知れないと思った。僕は彼の横に並んで同じ空を眺めていた。そして彼のガレージで遠い夏の陽射しを思い出していた。
確かなものを見つけるまではすべては繰り返す。
リックは僕に向かって言った。
「ネクスト」
僕は、何となく彼がそう言ったことの意味が分かったような気がした。

僕は短くなった煙草を靴の底で消すと、その吸い殻を携帯灰皿へ押し込み、ゆっくりと坂を下って行った。寒い風にジャケットの襟を立て、誰も来ない緩やかな坂を下りていった。僕は暖かい自分の部屋に帰ろうと思っていた。ここを折り返し地点として。

(16)

僕はきっと今もあの茶色い格子の外にいるんだと思う。
子供から大人になるにかけて、僕は誰かに両脇を抱えられたまま知らない世界に連れ出された。自分では望みもしないものを躰に沢山括りつけられ、何をするにも何を考えるにも知らない誰かの顔が僕の周りにあった。僕は自分の意志とは離れたところで自分の台詞を喋り、誰かが喜ぶだろう笑顔を返して来た。いつの間にか僕は自分の名前を忘れ、自分のいる場所さえ分からないまま歩き出してしまった。そしてもう戻る方角さえも見失ってしまった。
僕とは誰かが想像する僕であって、それは人によっては優しい人間に見えるのかも知れなかった。でも、違う誰かにとっては僕はとんでもない我が儘で分からず屋に見えるのかも知れなかった。誰かが思う僕は全て彼らのものであって僕が思う僕の姿ではなかった。例え全ての人が僕のことを良い人だと言ったとしても、僕は自分のことが許せないかも知れないし、すべての人が僕のことを嫌な奴だと言ったとしても、僕は自分のことを誰よりも愛し続けるだろう。

或る日、僕はミルという名前の女の子と出会い、自分が今何処に居るのかということに気が付いた。僕には顔があり名前があるということを思い出した。そして彼女と手を振った時に僕は自分の行き場所を探し始めた。そこに辿り着くには全ての重りを切り離して行かなければならなかったし、自分の意志で前へ進まなければならないということも、その時僕は分かっていたつもりだった。
でも、彼女が僕の中に開けた穴は思った以上に大きかった。僕はその穴の深さを見て、逆に僕も彼女に少なからず同じような穴を開けたことに気が付いた。
僕は自分の居場所を探す前にどうしたら彼女の穴を埋めてやれるかを考えていた。そればかりが心残りだった。でも僕にとって必要なことが、彼女にとってみれば必要ではなかったのかも知れなかった。彼女は現実、自分一人でその穴から這い上がり自分の居場所を探し当てたのだろうから。でも、僕は何年もの間そのことから離れることが出来なかった。自分の居場所を見つける為にも彼女という重りを先ず自分の躰から解きほぐす必要があった。そのことが同時に僕を自分の居場所に近づけるきっかけになると思っていた。
結局、僕はこの五年間にどれだけの距離を歩くことが出来たのだろうか。少しだけでも前へ進むことが出来たのだろうか。自分の意識の下で少しは生き続けることが出来たのだろうか。

自分の居場所。そこは別に何の苦痛もない不思議の国のことを言っているのではなく、勿論すべてを許せる楽園のことを言っているのでもない。そこは何処か目新しい寝場所を指しているのでもなく、自分の記憶の中にある古い聖域、小さな寝床を指している。
僕は茶色い格子の中にうずくまり、気怠そうにひとつ欠伸をする。そして汚れた指で自分の目を擦り、格子から入り込む幾本もの光の帯を見つめる。そして僕は恐る恐るその光の中に自分の足を滑り込ませる。伸ばされた僕の足は埃を吸った光の中で少しずつ暖められていく。そして幾本にも筋を引いた僕の足首が熱を持ち、僕は格子の向こうの暑い夏を想像する。埃を吸った真夏の光の中で僕は見知らぬ世界を体験する。そこは誰にも会うことが出来ない自分だけの迷路で、僕は彷徨いながら自分自身をはっきりと確認してゆく。
もしかすると、と僕は思った。
たぶん、僕はミルと別れた時から既に自分の居場所を探し当てていたのかも知れない。それは何処か遠いところにあるのではなく、今自分が歩いているレールの下、円の中心に向かって歩く自分の轍の中にいつでも存在するのかも知れない。
遠い昔、夏の夕暮れ時、しばしば巨大な雲が空を覆う。昼間の真っ青な空に代わっていきなり分厚く暗い雲が空一面を覆ってしまう。そして巨大な入道雲は堪えきれず大粒の雨をその下の町に遠慮もなく降らせる。大粒の雨は夏の陽射しに照らされた瓦屋根に落ちて黒い斑点をつくり、あっという間に静かに消えて行く。いや、それは消えて行くというよりも黒い斑点が瓦全体を覆ってしまうんだ。
見上げる町は姿を変えたように思えるけれど、それは単に色を塗り替えたに過ぎず、何一つとして生まれ変わったものはない。
ある意味で、僕は確かにあの茶色い格子の向こう側にいる。でも、僕はもうあの格子の中に戻らなくても歩き続けられそうな気がしていた。例えその茶色い柵の中の薄暗い部屋に戻ることが出来ないとしても、僕はこの見知らぬ世界で生きて行けるかも知れないと思っていた。

今夜、街は聞き慣れたメロディーの下、いつもより華やかなのだろう。
大きな包みを抱えた人たちが足早に歩き、それを呼び戻すように赤い衣装を着けた人たちが後を追う。いつもより明るさを増したショウウィンドが街中を照らし、眠れないマネキンは最後の一人が目の前を通り過ぎるまで笑顔を絶やさない。そして今日だけは灰色の道一杯に赤や黄色のガムボールが転がり、息を潜める木々や花までが鮮やかなネオンを着せられる。背の高い街灯は煌々と湿った路地までを照らし、顔の無い人たちが歩く様を眺めている。何処からも聞き慣れた鐘の音が鳴り響き、誰もが足早に家路を辿っている。
ミルはクリスマスが好きだった。街中に色が着けられるのが好きだった。
冷たい冬の中でいつも街は凍っている。低い灰色の空の下でいつも街は止まって見えた。でも、クリスマスの日だけは違って見えた。いつもより街は賑やかに思えた。本当のところは知らない。ミルもそれは分かっている。でも、ただ造られた華やかさであったとしても彼女はそれでも安心出来た。それは街を歩く人が笑っているからだった。その日だけの飾りの中を、例えその日だけであっても笑っている人がいるということがミルには嬉しかったんだ。
彼女は、いつも淋しいねと言っていた。普段擦れ違う人たちに向かって、いつ仮面を脱ぐんだろうねと。僕はそんな彼女の横顔を憶えている。
この先、僕は見知らぬ誰かと出会うことがあるだろうと思う。その時、僕はその人の横に肩を並べてあげようと思う。正面に向き合うのではなく、同じ方向を向いて横に並んであげようと思う。誰かが僕に話掛けて来たならば僕は黙ってその人の側に並んで、その人の見ているものを同じ方向から見てあげようと思う。
誰かが誰かに相談を持ち掛けた時、何か悩みを打ち明けた時、もう欲しい結論は自分で出しているんだろうと思う。誰もが悩みを順番に相手に説明しながら自分で確認をしているんだろうと思う。
だって相手が何と言おうと結局は最後に自分自身で結論を出すということを知っているのだから。

「それなら、どうして相手に相談をするの?」
ミルが尋ねた。
「肯定して欲しいんだよ」
「肯定?」
「そう。自分の気持ちに賛成して欲しいんだよ」
僕はミルの横に並んで、街の公園に咲くクリスマスツリーを見上げていた。
「自分で決めてしまったことなら肯定して欲しくても、決めかねてることならどうするの?」
ミルは僕の腕に寒そうにしがみついていた。
「今、結論が出せることなのかい。出せないのなら、無理に答を出す必要はないのさ。人の意見で答を出さなくても良い。自分で出せるまで悩んでいる方が正直だよ」
「あなたって残酷なのね」
「ある意味ではね。でも、結局は自分で答を出すしかないんだ。僕にはそれが分かっている」
僕は腕を組んだミルの手を握り締めて自分のコートのポケットに入れた。僕は、ミルの手を握り締めるのも今日が最後なんだなと自分に言い聞かせた。
「あなたらしいと思う」
ミルは僕のポケットの中で僕の手を握り直した。彼女は一本一本の指を僕の指に絡ませて来た。
「あなたはいつも私の横に並んでくれた。正面で話をしていてもいつの間にか側に来てくれた。そしていつも私と同じ方向を向いてくれていた」
「それは苦痛だった?」
僕はミルの方を向いて尋ねた。
「ううん。お蔭で私はいつも自分に自信が持てた」
彼女は僕の顔を見て心よりニッコリと笑った。
「ありがとう」
そう言うと、ミルは僕の胸にその顔を埋めた。

僕はミルと手を振ったその最後の夜のことを思い出していた。クリスマスまで数日となった日の夜、僕たちはミルの部屋から抜け出し沢山の電球が飾り付けられた公園のツリーの下にいた。彼女は、大好きなクリスマスの街を僕と歩きたいと言った。彼女が僕に背を向けた時、僕はいつまでも空を見上げていたのを覚えている。その時は真っ黒な空に雲が全て消え去り、散りばめられた電球のような星が塵のようにいつまでも瞬いていた。

肌を擦り抜ける風が冷たく感じる中を、僕は自分の部屋に戻って来た。幼い頃に育った町は、懐かしく安らかな記憶をすべて新しく塗りかえてしまったけれど、僕はその生まれ変わった駅から電車に乗り、鮮やかな包装紙に包まれたプレゼントを抱える人たちの輪の中に取り囲まれながら、自分の部屋に戻って来た。
僕はその時、電車の中の窓際の席に座り、笑顔を振りまく子供たちが口ずさむ歌を、とても穏やかな気分で聴いていた。そして、足早に通り過ぎる窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
新しい町は、誰かの愁いをすべて抱え込んだように僕の目の前を流れて行った。それは色を無くして行く空の下でそれぞれの感傷に蓋をするように遠ざかって行った。遠い日、僕がこぼした溜息も、誰かが流した涙も、形のあるものないものに限らず、すべての時間が僕の後ろへ流れ去って行った。
僕は窓から見える冷たい季節に向かって懐かしい記憶をひとつずつ放り投げた。引き出しの中から古くなった思い出を順番に取り出して、遠くに見える赤色の空に千切り捨てた。
古くなった僕の思い出は電車の脇を吹き過ぎる風に直ぐに捕まり、遠ざかる新しい町の中にあっという間に消えて行った。そしてそれは誰かが捨てた古い仮面と一緒に新しい排水口の中に静かに流れ落ちて行った。

リックは空に飛び立ったのだろうか。自分の愛するものの中にその身を委ねることが出来たのだろうか。
僕は自分の部屋の窓を開けて遠くネオンがちらつく空を眺めていた。暮れかかった空は赤い雲を抱えたまま静かにその色を失おうとしていた。そして真っ暗な闇が次の出番を待ち構えていた。
僕は自分の暖かい息を冷たい街の中にゆっくりと吐き出した。白い僕の分身はあっという間に広がり、音もなく、いとも簡単に消えて行った。
あの日、君は僕の横に並び僕と同じものを眺めていた。一言も声を出さずにね。その時どれ位の時間が流れていたのかは分からない。でも確かに君はその時、僕の時間の中に入り込んで来たんだ。時間を切り取るハサミを握り締め、するりと壁を擦り抜けるみたいにして、僕の承諾もなしに勝手にね。

「私たちが出会った日のこと、とても良く覚えてる。とても素敵な出会いだった」
ミルがいつか言ったことを僕はちゃんと覚えている。

明日、夜が明けるとこの街はまた普段通りの姿に戻っているのだろうか。それとも、僕が気がつかないだけで、街は全然違った顔を見せるのだろうか。
季節は知らない間に色を変える。 緑鮮やかな頃、木々の葉は真っ白な陽射しを受け、自分の下にもう一つ自分の影をつくる。地面に下りた影と自分との間には沢山の時間と距離があって、それを読み取る前に影の自分は形を変えてしまう。陽射しが低く薄く伸びる季節、やっと自分の顔を思い出してそれと同じ影を探す時には、影は色を無くして消えてしまう。
その時、僕は誰かを人恋しいと思う。
僕は冷たい窓の外に、低く垂れ込める空に向かって手を伸ばしてみる。風はいつものように空の隅で角度を無くし、僕の頭上で円を描くだろうか。何処かでまた風が起こるのを僕はじっと待っている。
僕は風と戯れたいと思っている。

(エピローグ)

年が明け、僕たちはいくつもの打ち合わせをこなした。そしてイベントが行われるまでの数ヶ月の間、それぞれがそれぞれの仕事をまっとうした。
五月の良く晴れた日、都心から程良く離れた小さな空港に僕は向かっていた。航空荷物などを運ぶ小型機が中心に飛ぶその空港でいよいよイベントが行われる。
モンペリエレッドの古いレンジローバーの車窓から新緑の鮮やかな季節が流れて見えた。
三瀬さんとの待ち合わせ場所は空港をぐるりと見渡せる小さな高台にした。新興住宅の開発が入り造成が進んだ高台は、小学校のグラウンドほどの大きさに綺麗にならされていて、そこから眼下に色々なペイントが施された小さな飛行機と空港全体が一望出来た。
雲一つない青い空の下、僕は数台の車の列に並ぶようにレンジローバーを停めた。車を降りると米井さんが僕を見つけて走り寄って来た。
「ご苦労様。いよいよですね」
米井さんは嬉しそうに声を弾ませ、子供みたいにはしゃいで見えた。
「綺麗な飛行機が沢山並んでますよ」
彼女の指さす方に、僕がデザインしたファームス入り江のイラストが描かれた小型機が見えた。
「これだけ青色の飛行機が並ぶと、ある意味爽快ですね」
僕は米井さんの横に並んでイベント会場を眺めた。
「今日は沢山プレスも来ていますよ」
300ミリ以上はある望遠レンズを付けたカメラを肩からぶら下げて三瀬さんが言った。それぞれの関係者に挨拶をして来たのか額に大粒の汗を掻いている。
「やあこんにちは。色々お世話になりました」
僕は三瀬さんに向かって手を差し出し、両手で握手をした。
「三瀬さんのお蔭です。有り難うございます」
「いえ、こちらこそ。久しぶりに良い仕事が出来ました」
三瀬さんは日焼けした顔をほころばせ、
「今日のイベントはスポンサーもかなり満足しています。新しい清涼飲料水をPRするには絶好の機会だと喜んでますよ」
「そう言って下さると嬉しいです」
僕は、今日のイベントが無事に、そして関係する人々が皆それぞれ満足してくれることを望んだ。
「航空ショウも撮影するのですね」
滑走路の端に三機のセスナが並んで停まっているのを眺めながら僕は言った。
セスナには、ハーバーブリッジと白いオペラハウスとファームス入り江に浮かぶヨットがそれぞれ描かれていた。
「今日の天気は最高です。雲一つなく良く晴れたお蔭で、セスナが浮かぶ空は見方によっては海に見えるかも知れない」
三瀬さんが言った。
「素敵。空を飛んでいるのに、そのセスナに描かれた絵がまるで海の上に浮かんでいるように見える・・・、そうなれば良いですね」
米井さんが空を仰ぎ、遙かな高みに目を細めた。
僕たちは高台の端に並んだそれぞれの車の前に立ち、これから始まる空と海のショウを想像した。
管制塔の横にイベント用の大きなテントが幾つか並んで立っていた。その前に、スポンサーなどの関係者と一般から応募して招待された家族連れが数百人程集まっていた。空と海をイメージした青い水着を着たキャンペンガールが手に手に白い風船を持ち、ショウを待ち侘びる子供達に渡していた。子供達は皆丸い風船を空にかざし、何処までも続く高い空に向かって微笑んでいた。テントの上には色鮮やかなアドバルーンが浮かび、そよぐ風に大きくゆらゆらと揺れていた。
暫くすると滑走路の端に停まっていた三機のセスナにエンジンが掛かった。ブルブルと小さく機体を揺らし、真っ白なプロペラが回転を始めた。
高台に陣取ったプレスが一斉にカメラを向けた。三脚に長い望遠レンズを付けピントを合わせる者もいれば、ビデオカメラを回しアナウンスを付けるクルーも居た。三瀬さんも肩から下げたカメラを構え、セスナが飛び立つのを待った。
先ずオペラハウスが描かれたセスナが滑走路を滑り始めた。その後を残りの二機が続く。三機のセスナは順に空に飛び立ち前方数百メートルまで真っ直ぐ低空飛行をすると、Uターンをするように機首をこちら側へ向けた。そして横に並んで管制塔の前まで戻ってくると、真ん中のオペラハウスが描かれた一機は急角度上昇を始め、残りの二機はそれぞれ左右へ離れていくように旋回しながら上昇して行った。
真ん中の一機が機体が地面と垂直になるまで上昇を続けた後、遙か上空でエンジンを切った。プロペラが数回転の後停止するのが肉眼でも分かった。オペラハウスはお尻の方からゆっくりと下降を始めた。
ハーバーブリッジとヨットが描かれた二機は、それぞれの旋回の頂点をその停止したセスナの辺りで迎え、ゆっくり落ちて行くオペラハウスを見送るように羽根を傾けてすれ違った。円を描く二機はそのまま旋回を続け、それぞれが描いてきた軌跡をなぞるように、今度は下降を始めた。
三機は上昇して来たラインを、正確にレールの上を滑るように落ちて行った。
左右に円を描くセスナが最下点に近づく頃、エンジンを停めてお尻から下降していた一機は、まだその円を真っ二つに切るように下降を続けていて、漸く円の中心辺りまで落ちてきた時、再びエンジンを掛けた。モーターがプロペラを回す音が聞こえ、オペラハウスが描かれたセスナはもう一度浮力を得た。そして今度は機首を下に向けて、他の二機が向かう円の最下点を目指して加速して落ちて行った。
三機のセスナは円の最下点で重なり、ぶつかるように見えた。けれども、予め計算され訓練された方向へ翼を傾け、お互いをすり抜けるように見事にすれ違った。今度は三機並んで地面と平行に機体を揃え、僕たちの居る高台に向かって飛んできた。そしてあっと言う間に、けたたましい音を響かせながら、僕達の真上を猛スピードで通り抜けて行った。
管制塔の横のテントで大きな歓声が上がった。イベントの開始を合図する三機のセスナのショウに全ての観客が釘付けになった。

リックはどんな色の飛行機に乗り、どんなツアーをしていたのだろう。どんな景色の中を、どんな話をしながら、どんな人を乗せ、静かに移り行く季節の中を、いったい何処まで飛び続けていたのだろうか。
僕は目の前に広がる奥行きのない景色を眺めながら、ふとそんなことを思った。

人は誰かを思い続けないと生きて行けないのだろうか。その人が生きていて、ちゃんと自分に笑いかけてくれないと、潰れてしまうのだろうか。誰かを思いながら生きて行くことと、忘れずに生きて行くことの違い。
リックが言った。
「俺はずっとイーディのことを忘れないで生きて行くよ」

僕は今でもミルのことを思っている。そして忘れずに生きている。彼女に対して恋をしているのかと聞かれたら、はっきりそうだと答えるだろう。でも、それは巷で流行るような恋に恋焦がれるようなものじゃない。躰を求め、軽々しく愛してると呟くようなものじゃない。上手く言えないけれど、形を求め目に見える枠を求めるというのではなく、不確かであって存在が掴めないものであっても、相手の考えや生き方を認め、その人が生まれた存在価値を愛するということだ。
ミルに会いたいかと聞かれたら、迷わず会いたいと答えるだろう。でももう会えないだろうということもちゃんと分かっている。
僕はミルを探すようなことはしない。きっと彼女も同じ気持ちだと思う。会って何かを探し求めるより、会わずともこれからお互いが進んで行く方向を知っているから。
何故いつも、ねじの形をしたイヤリングをしているのかと、ミルに尋ねたことがある。
「何故だと思う?」
「形が好きだから?」
僕は理由がさっぱり思い浮かばず、ありきたりの返事をした。
ミルは、少し照れくさそうに下を俯きながら、小さな声で答えた。
「自信がないから。そしていつでも自分を振り返られるようにと思って」
「自分を振り返る?」
「そう、ねじを巻くように自分も巻き戻すの。毎日、時間はどんどん流れていくわ。上手く一日を終えられたと安心する日もあるけれど、取り返しがつかない失敗をしたと後悔する時もある。でもね、過ぎた時間はもう取り返せない。過去には戻れない。だから私は、ねじを巻くの。次の日に、新しい時間に、過ぎ去ったことをやり直すの。最初からもう一度やってみるの。そうすれば過去に捕らわれず、少しずつでも前に進んでいける。そう思うの」
「君は随分と強いんだね」
僕はミルの耳にぶら下がっている、小さなねじを見ていた。その銀色のイヤリングは、ミルの意志を代弁するかのように輝いていた。

「あなたと出会ったことで私は満足なの」そう言ったミルの言葉が好きだ。僕はミルという一人の女性と知り合ったことで、恋をし、人を愛するということを心の底から知った。
誰かを好きになるという気持ちを持てたことは、その相手のお蔭だ。好きになった時点で他に何かを求めてはいけない。自分自身を一番愛するように、自分自身の気持ちが選んだ相手を自分自身が信じるだけで良い。
これから先、僕はまた誰かを好きになり愛することがあるだろう。

コンポーズブルー。青とも緑ともいえない微妙な色だ。見上げた空はそんな色をしていた。どこまでも透き通って澄んだ空気の臭いがした。
管制塔の前では色々なイベントのショウが続いていた。招待された多くの家族連れはそれぞれに気に入った飛行機のところへ行き、写真を撮ったり、記念品を貰ったりしている。
米井さんがニッコリと笑いながら言った。
「大成功ですね。皆さん楽しそう」
「何なら下へ行ってイベントに参加してきますか?」
三瀬さんが、米井さんの子供みたいにほころんだ笑顔を見て言った。
「ホントですか?行って良いなら是非」
「もちろん大丈夫です。ついでにお偉方にも紹介しますよ。そうだ、御一緒にどうです?」
三瀬さんは僕の方へ振り返り、イベント会場になっている滑走路へ行かないかと誘ってくれた。
「いや、僕は結構です。この仕事は三瀬さんのだし、僕はお手伝いをしたに過ぎない。それにお偉方とか、あまり得意じゃないので」
僕は失礼にならないように、真面目な顔で三瀬さんに答えた。
「いいえ、分かっています。でもこのショウの成功はあなたの作品があってのことです。それはみんな分かっていますよ」
三瀬さんは僕に一礼をすると、米井さんを促し、眼下のショウを見に行こうとワゴン車に向かった。そして車に乗り込む際に振り返り、
「今回のショウは本当に大成功です。後が大変ですが、落ち着いたら一杯やりましょう。これは約束ですよ」
そう言って右手を挙げた。
「私との食事の約束もまだですよ」
米井さんも僕に向かって笑いながらお辞儀をした。
僕は二人に向かって手を振り、
「もうしばらくここから航空ショウを見ていきます。どうもありがとうございました」
そう言って頭を下げた。

白い商用のワゴン車は造成された土の高台からくねくねした未舗装の道路を下り、賑やかな歓声に溢れる小さな飛行場に向かって行った。
僕は何人かの残った見知らぬカメラマンやテレビ局のクルーたちと一緒に高台に残り、ぼんやりと遠くのショウを眺めていた。彼らの中にはショウに満足したのか、良い映像が撮れたからなのか、笑顔で何かを語り合いながら帰り支度を始める者もいた。僕はそんな彼らを眺めながら、とても穏やかな幸せを感じていた。誰かが笑っている姿を見るのはとても気持ちがいい。
帰り始めた車の陰にまだ数名のカメラマンたちが残っていた。どこかの代理店やデザイン関係の人たちなのだろうか。ショウを最後まで見て行くつもりなのだろう。

僕は暮れ始めた空を見上げた。
この空の向こうにリックの街がある。ユーカリの木は緑鮮やかに繁っているだろうか。そしてまた大きな日陰を作るだろうか。
鎖につながれた犬は、通り過ぎる誰かに向かって吠えることがあるだろうか。夜の窓に映った男は今も背中を丸めて虚ろな目をしているのだろうか。
この空をどこかでミルは見ている。
じっと黙り込み、やがて訪れる真っ赤な夕焼けを待っているのだろうか。空を舞う風は、ネジの形をしたイヤリングを揺らし、肩までの短い髪を揺らす。ミルは乱れた髪を直すこともせず、穏やかな表情で沈み行く夕陽を待っている。

僕はレンジローバーのドアを開けて乗り込むとエンジンを掛けた。そして一枚の古いCDをコンソールボックスの底から取り出してセットした。丁度真ん中辺りの曲に合わせた。

『遠い日に水平線の空に夢見たもの、あれはなんだったろうか
もう一度あの海を見に行こう
アスファルトを蹴って、僕は風になる』

僕は車を停車させたままハンドルを握りしめ、その曲を黙って聞いていた。リピートボタンを押し、何回も何回も聞いていた。外の景色は、車のフロントガラスを一枚隔てているだけで、別世界のように感じられた。
うっすらと色を落とし始めた空が綺麗だった。
僕は黙って夕焼けを待っていた。膝を抱えてうずくまることもなく、誰かの隣に座り、同じ方向を向いて、オレンジ色の空を待っていた。

何の前ぶれもなかった。それは極自然に僕の視界に入ってきた。音も立てずにそっと手を伸ばし肩を叩くように、何も予期していない僕の目の中に静かに入り込んできた。
一人の女性が僕の方を見ていた。暮れかかる陽射しを背にし、顔はよく分からなかったけれど、肩からはカメラを下げ、それを大事そうに両手で持っていた。髪は肩までと短く、高台を吹き抜ける風にはらはらと揺れるのが見えた。風が揺らした耳元には小さなイヤリングがぶら下がっていて、オレンジ色の光を受けてそれはネジの形をしているように見えた。
僕はハッとして彼女の顔を良く見ようと目を凝らした。逆光になった顔の中で、彼女は僕の目をしっかりと見つめながら微笑んでいるように見えた。
僕はエンジンを止め、ドアを開けてもう一度外の世界に降りた。目の前に映るものがすべて夢でないことを願って、ドアをゆっくりと閉めた。
僕は静かに彼女に向かって歩き出した。そして彼女の目の前に立ち、優しいその目を見つめながら言った。
「おかえり」
西陽に照らされた影が長く細く伸びていた。土の香りを含んだ暖かい風が、どこか遠く空の隅でくるりと円を描いた。
「うん」
ミルはくすっと笑いながら顔を上げた。

 

(了)