2019.12.29 らしさ

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先日、大切な後輩から展覧会に行ってきましたと、その絵ハガキが届きました。
展覧会の紹介を目にして「何とも凄い絵だ!」と居ても立っても居られず、遠い町までわざわざ観に行ってきたとか。素敵なことですね。心が震えたんだ。

クリムトの「ユディトⅠ」という作品ですね。
正式には「Judith and the Head of Holofernes (恍惚の表情ではねた首を持つユディト)」というもので、ユディトは他にⅡやⅢもあります。

ユディトとは旧約聖書外伝に登場する女性の名前で、彼女は祖国のためホロフェルネスという敵将の寝首を切って持ち帰ったという物語があって、クリムトが描いたユディトは、どんな困難にも屈せぬ女性の強さを表しているのだとか、或いは女性がもたらす誘惑の危険性を表しているのだとか。
クリムトはオーストリアの芸術一家の画家で、愛弟子にエゴン・シーレらがいますね。ゴッホたちが逝った後の時代にもウィーン芸術はずっと凄かったんだなあ。
想像でしか人の気持ちは分からないけれど、ユディトってどんな女性だったんだろう。クリムトはどんな気持ちでユディトを描いたのだろう。

僕はよく「らしさ」という言葉について考えます。大人らしく。子供らしく。友人らしく。あなたらしく。自分らしく。「らしく」って何なんだろう。
想像でしか人の気持ちは分からないけれど、人は皆、自分が作った自分のための物差しで、人の「らしさ」を測ってるんじゃないだろうか。
らしくないとだめで、らし過ぎると大袈裟に取っちゃう。ちょうど良いのは自分だけが心地よい基準。客観的で正確な事実じゃなくて。

街に出てみると面白いもので、車椅子に乗って、鼻を覆うプラスチックのマスクを被って、そのホースがだらりと呼吸器にぶら下がって繋がっている様を見たら、誰でもさすがにビックリしちゃう。
でも道をヘルパーさんに押されている時は、すれ違う人もチラ見するくらいで、気にも留めない様子。けれど、レストランなんかに入ったら気になって仕方ないみたい。僕がじっと首も動かさずに座っていると、安心するのか飽きちゃうのか視線が外れるけれど、口に運ばれた料理をモグモグしたり、かすかな息ででも話したりすると、みんなザワザワしちゃう。
あ、食べられるんだ。え、喋れんの。あのホースって何。家族の話題がこっちになっちゃう。僕は別に気にしないしどんどん見てくれても良いのだけれど。見たことないだろうし、興味も沸くだろうし。
でも、たぶんイメージがあるんだろうなあ。呼吸器着けてる人って普段見ないものね。僕が辛い苦しい楽しい嬉しいと感じている事実は必要なく、彼らが作り上げた「呼吸器を付けた車椅子の人」らしく、僕はあらねばいけないらしい。

風邪ひいた時でもそうでしょう。病人は誰から見ても病人らしく見えないといけないみたいで、思われているよりも病人らしからぬ様子だと、あ、もう元気ね、大丈夫ね、って思われるし。本当はまだしんどいのにー。
逆に病人らし過ぎる様子だと、まだ寝てなさい、今夜もお粥よ、ってなっちゃう。こんな熱もう微熱やんかー、もうカレー食べられるのにー。と思ってもダメみたい。そこに事実は要らないのだ。人が勝手に作った「らしさ」が絶対なのだ。ふーんだ。

・ひとは「らしさ」でものごとを測る生きものである・

注意しないとね。来年に向けて何か一つくらいは道標を立てないとね。僕はぐうたらですから。
気をつけよう。その人らしさを、自分の物差しで測ってはいけないね。こうあるべき、ではなく、その人の奥底の声を聞いてあげないと。それが出来ないのに、自分らしくなんて無理な話だ。

むーん、年末に更新するブログのハナシではないですな。相変わらず長いし。だって絵葉書貰ってから書き出したのだけれど今日になっちゃったのだもの。ぐははー、病気のこと何も書いとらんな。
そうだ、クリスマスにインドに居る大好きな友人からグリーティングカードが届きました。毎年毎年わざわざ送ってくれます。いつもありがとう。何もかも貰いっ放しやなあ。
何でしょうかね、この「温かさ」は、「らしさ」って思っても良いのですよね。彼らしい、彼女らしいと。

しんどいけれど、しんどくないよ。
どうすれば、あなたらしさを理解し、僕らしさをさらけ出せるのだろうか。
どうやって歩いていけば、一番最後の夜に、僕は生きることが大好きだったと言えるだろうか。

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