2017.7.12 バベルの塔

毎日暑いです。梅雨ですものね。その梅雨入り前にブリューゲルを観にいってきました。時系列的には先回のブログの前のことです。順番ちゃうやろー! むーん。
でも、その時はブリューゲル観に行ってきましたー、と書く気はなかったのです。元気なかったし・・・。でも、ここのところの自然災害には言葉を失うし、劇場型政治には辟易するし、「言葉」について考えてみたくなったのです。

「バベルの塔」――言わずと知れたブリューゲルの作品。教科書とかでよく目にするのは一作目の方でしたっけ? 両方知っている僕はどちらも好きですが、今回の「バベルの塔」展は二作目の方。展覧会には彼の師匠の「ボス」の作品も出展されていて、ずーっと、う~むむむ、な状態でした。

バベルの塔
<バベルの塔:二作目> 展覧会に来たのはコチラ

バベルの塔 旧作
<バベルの塔:一作目>

バベルの塔の絵画は大昔からたくさんの画家に描かれていて、ブリューゲルだけが描いたものではありません。ただ彼の二作目のバベルの塔は、宗教性だけではなく、塔の大きさが他品に比して圧倒的に高く、また当時の建築技術が絵のあちこちに如実に表現されていてとても面白い。だから「バベルの塔」=「ブリューゲル」と有名になったのかもしれません。

そもそも「バベルの塔」は何の為に建てられたの?ということですが、それには諸説あって、「ノアの箱舟のように、地表に襲い掛かる災いから逃れる為に出来る限り高く建立したかった」、という説もあれば、「民は崇める神へ少しでも近づきたいと望み、雲を越えるほど天高く立てたかった」、という説も。

いずれにしろ、民は自分たちでいろいろと考えた訳ですな。でも、全能の神からすれば、しもべである民のそういった行動は面白くないわけです。無断で勝手に何しとんねん!と。神は自身への反逆だと考えたのですね。しもべたちが纏まり共同であのような塔を建てるのは、彼らが一つの言語しか持ち合わせていないからだ。では、お互いの意思疎通が出来ぬよう、民を世界中に散らしてしまおう。遠く散りぢりの場所で、別々の言語を使わせるのだ。ぬはははは!

あ、本当かどうかは知りませんよ。無責任な僕の知識ですから。無宗派ですし、先に逃げておきます。でもだから今も世界中にたくさんの言語があるのかしらね。
確かにねえ、一つの言語しかない世の中はぞっとします。SNSが悪い例。便利なツールだけれど悪用するとドドドーって一方向へ流れちゃう。
やっぱり方言があって、母国語があって、他国の言語も知って、ニュアンスの違いに歯がゆさを感じて、というような感じが平和なんだろうなあ。

「言葉」の持つチカラってどれくらいの強さや優しさがあるのだろう。「音」にしなくても「文字」にすれば伝わる? それさえも奪われても心の中ではきっと何かを叫んでいる。その声をどうやって聞いてあげられるの?
うーむ、言葉って「想像力」なんだろうなと思います。言葉ってヤカンの蓋みたいなもので、それを手掛かりにヤカンの中身は自分で考えなさいということなんでしょうね。

「記憶にございません」や「丁寧に説明します」などと、上辺だけの答弁じゃ誰のヤカンの蓋も開かないし、想像を絶する災害には僕自身も自分のヤカンの小ささに絶句し発する言葉がみつからない。

言葉の向こう側へ手を伸ばさなくちゃね。僕はいろんな方から言葉をもらい、想いを届けて頂いて救われています。僕もそうしなくちゃ。声が出せず身体も動かせなくなろうとも、言葉を交わせなくなり、聞くことだけしかできないとしても、その向こう側に多くの温かい手や想いがあるということを、忘れてはいけないね。
まだまだ、やらなければならないことがいっぱいあります。

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