2016.5.23 五月

大好きな季節になりました。
風薫る気持ちのいい五月。すーっと深呼吸すると、身体の隅々まで浄化されていくみたい。

一人で窓の外を眺める時間が増えました。外の世界は眩しくて、黄緑色の葉っぱが揺れている。それをぼんやりと眺めている時がいい。水色の風が入り込んで来て、僕の心の扉をノックする。

先日、大学時代の後輩二人が訪ねて来てくれました。遠い大阪と京都から。数十年ぶりでしたが、ドアを開けて顔を合わせた瞬間からタイムスリップしていました。わざわざどうもありがとう。いつかまた会おうね。

彼らに限らず、僕はたくさんの優しい手に支えられています。
ふと思います。自分が救われているように、少しは自分も誰かの支えになりたいけれど、自分が動けない、このことについて、とても複雑な思いがします。

誰かの手を引いてあげたり、背中を押してあげたいと思っていても、実際に手を握ってあげることが出来ない。言葉や文字で支えてあげようと思っても、やっぱり、目の前にかがんで頬に手を添えてあげる方がいい。いくら優しい言葉を掛けてあげても、やっぱり落ちる涙を指で拭ってあげる方がいいもの。

僕の目の前に居る人が、みんな自由に幸せに暮らしている訳ではない。例えば、後輩たちに何かあったら、それを知っても僕は行って上げることが出来ない。誰もが、悩み、苦しみ、悲しみを抱えている。その手が動かなければ? 声を出せなければ? 僕はその人をどうやって救ってあげられるのだろう。

何なんだろう、この手足を縛られた感覚。やじろべえの両端に立たされ、どちらも一歩も動けない状態。どちらかが一人動けるのなら、バランスを取りながら近付いて手と手を取り合えるかもしれないけれど、どちらも動けないならどこにも進めないじゃないか。誰かの優しさの上で僕は生かされている。
自分の無力と無念と切なさと。そんなことを、最近、毎日考えます。

この病気は動けなくなってゆく自分の姿だけを知り、それを耐えてゆく旅だと思っていました。何と愚かな。この旅は、人の優しさを知り、誰かの為に生きる、ということを教えてもらう旅だったんだ。気付くのが遅い。遠回りばかりしている。感謝もせずに美辞麗句ばかり。
いつか、出来るうちはたくさんの人と握手をしよう、と言ったけれど、それも、僕がしてもらうことが前提だもの。やっぱり僕は薄っぺらいな。
何回もブログで言っていますね。でも、本当にそう思います。

五月。
緑の野辺に寝転がり、僕は空をくるくると回るひばりの声を聞いている。
誰かの気配を感じ、身を起こそうとするけれど、僕の身体は動かない。胸を締め付ける想いや、訳の分からない痛み、その人はためらいのない真っ白な手で、僕を掴もうとする。でも、その人の手も動かなければ、僕はその手を握ってはあげられない。
その人の苦しみや悲しみを拭い去ってあげられない。
せめて今の僕ができることを。せめて誰よりも大切に思っているということを。

大好きな五月。僕が生まれた月。轍(わだち)はどんなかたちをしているのだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください