2016.1.8 轍(わだち)

あけましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
もう七草も過ぎました。早過ぎるー! 無病息災(僕は一病息災くらいで調度いい)を願って七草粥を頂きましたが、う~ん、昔の人の考え方やものの捕らえ方には本当にびっくりぽん!です(某公営放送さん、真似してごめんなさい)。
僕もいい歳したおとっつあんなのに、何となくしか覚えていないことが多くて恥ずかしいことばかりなので、お正月明けにちょこっとお勉強しました。

僕のPCの前の壁には、どーん!と昔ながらの日めくりカレンダーがありまして、そこにいろいろ書かれている訳ですね。う~むむむ、知っているけれど知らんわー、ということが。先勝や友引、大安などの「六曜」くらいは分かりますけれど、日めくりには、他に「二十八宿」とか、「干支」も書かれてあって、どこまで説明できる?って聞かれたら、僕は甚だ怪しい。干支の知識も、全部で60あってそれを一周するから六十歳で還暦、という程度だし、「つちのえね」と言われても、ん?という情けなさ。節気も春分や夏至や大寒などは言えるけれど二十四節気全部は言えない。

年が明けて、近所の小さな神社へお参りをさせて頂きました。いつものように目を閉じて、昨年一年間を無事で過ごせた御礼と、御守りをお返しに・・・。
神殿の屋根を眺めながら、今年は自分自身どういう一年を過ごしたいのか考えてみました。
「一心無迷」。
昨年は迷ってばかりでした。病気のことも、生活のことも、ヘルパーさんや人との接し方も、引いては自分自身のこの考え方も、優しさや、正直さや、賢さや、淋しさや、我慢や、嘘や、らしさとか、こころとか、想いとか、それらはいったい何なのだろう。
僕は誰なんだろう・・・。

鏡に映る自分はどちらの自分なのだろうか、ちゃんと分かって生きてきたつもりだったのに、去年は鏡ばかり磨いていたように思います。何が正しいのか分からず、表も裏も見分けられずにずっと曇った鏡を磨いていました。10円ハゲ1号とか2号とか出来ましたものね(まだ治ってませんよーだ。む~ん)。
知っている筈なのに。本質を見失ってはいけない。鏡に映る姿を磨くよりも、映す自分を自分らしく生きないと。ボヤケているのは鏡ではなく、自分自身の方なのだと。

寒い鈍色の空の下、そっと目を閉じて思ったことは、「一心無迷」。
そんな言葉は実在しません。
僕は決して無心にはなれない。これからもどんどん自分から迷路に入っていくのだろうな、と思います。でも、だとしたら、尚更、その時の自分の心が指す方向を、ちゃんと頷いてから、進みたいと思います。
何かを悟れるほどまだまだ生きていない。無心は遥か彼方です。そこへ辿りつくまで、自分らしい心を一つは持って、そして、迷い無く生きたいと思います。

今年も長いブログになりました。新しい轍(わだち)に道標を立てます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください