2015.6.29 身体の死と、心の生

以前「春」というタイトルの記事に書いた、僕が言うところの「ゴール」と「怖さ」について、いろんな方からメールやコメントを頂きました。僕なりの身勝手な表現でしたので、またたくさんの方にご心配をお掛けしました。申し訳ありませんでした。そのことも含めてもう少し、心の内側を見て頂こうかなと思いました。僕なりの、今この瞬間の僕のひとり言ですので、本当にどうぞあまり気になさらないでください。梅雨の間の晴れた日に布団を干すように、ちょっと湿った心を天日干しするみたいなものなので・・・。
今回はとても長くなります。

僕はALSと確定された日、大学病院からの帰宅中、まだ午後の早い時間だったでしょうか、車の窓から見える景色が明るく眩しかったことを覚えています。車を運転しながら、あぁ大変な病気になってしまったなと、とんでもない事実を知らされたにも関わらず、でも取り乱したり、愕然とすることはなく、自分の心は平静でした。冷静に自分のことを考えていました。

車窓を挟んで外の世界とは音も遮断されて、明るく暖かい静かで穏やかな空間に一人きりだったからなのかも知れません。それとも、自分の足でアクセルを踏み、自分の手でハンドルを握りながら運転をしていたので、ALSという病気を遥か遠い未来のことと思っていたのでしょう。知識として持っている症状・病状になるまでに、いくらでも時間はあると。そして、身体が少しずつ動かせなくなり、やがて停まる、その言葉の意味そのものが理解できなかったのでしょう。具現化することが出来なかった。どこか別の世界でのおとぎ話だと漠然と感じていたのでしょう。
すれ違う車や景色、行き交う人を眺めながら、僕はなぜか笑いながら泣いていたのを鮮明に覚えています。楽しい訳はなく、悲しいだけの筈なのに、何故か笑っていました。メガネの縁に溜まるくらいどんどん涙がこぼれてくるのに・・・。

それから少しずつ、でも確実に停まってゆく身体と対峙しながら、どうやってこの病気と付き合ってゆけば良いのか、どうやってこの病気を受け入れてゆけば良いのか、という「問い」に対して「解」を求めるようになりました。今もその旅は続いています。でも、僕はそのことをちゃんと考えているのだろうかと思う時があります。実際に、僕自身ちゃんとその「問い」に向き合っているのか、「解」こうとしているのかさえも、分からないときがあります。

とてもややこしくて混乱する表現しかできませんが、ちゃんと「病気を受け入れること」を考えよう、その方法を探そう、そういう心を育てよう、と本気で模索する一方で、受け入れることなど本当は誰もできないのではないか、と思っている自分がいるのです。
ALSという病気になったことを受け入れることが出来ないのなら、いったい何に自分の救いを求めれば良いのだろうか、とまた頭を抱える自分がいます。

その救いを「病気を受け入れる」ことの外に見つけることが先決なのか、いやでもやはり病気をちゃんと受け入れるべきじゃないのか。どちらが先か、そもそも優先順位や救いや、やるべきことはいったい何なのだろう。その繰り返しの毎日です。それだけで疲れてしまって、考えるべきことを考えることができない。いや、やっぱり考えているな、いや、まてよ・・・。くるくる回っているだけなのでしょうか。

何も考えず毎日を悔いなく生きる、という生き方は難しいことです。ALSになってしまったことは事実で、身体の筋肉が衰え始め、転んだり、たった5cmほどの段差もあがれなくなり、いつしか転んだら自力では立ち上がれなくなりました。やがて杖を持つようになり、電車で座ると立ち上がれないので、ドア付近にもたれて立つようになり、それも叶わず車椅子になり、洋服が被れなくなり、ボタンが外せなくなり、スプーンやペン一本も持てなくなりました。その落ちてゆく自分の身体が停まってゆく過程というものを毎日毎日、ずーっと自分で見てきました。出来なくなったことを代わりの方法で補う。その時々の景色や思い出がたくさんあります。悲しいけれど、悔しさの方が多い。病気の進行に休みはなく、それは永遠に続く。何も考えずに生きる時間などありませんでした。これからも。
毎日、毎日、そのことばかり考えています。でも、まだ受け入れられなくて、受け入れることができるのか、受け入れることが本当に必要なのかと、くるくると同じところを回っています。

でも、少しずつ思考は前へ進んでいます。行きつ戻りつ上書きされています。
先述の「春」という記事に書いた「ゴール」とか「怖さ」とは、もちろん「死」に対して意識するから、ということもありますが、これらの言葉は、最近の僕の中で、「考えねばならないこと」を考える、その合鍵というか、キーワードみたいなものになってきています。
確かに「死」は怖い。でも、今の僕の「ゴール」や「恐怖」の意味するところは、「命の死」の前にくる「身体の死と、心の生」の共存時間(期間というべきでしょうか)、その時が身近に迫っていることをひとつの「ゴール」と捉え、その門が次々に近づいてくることが「怖い」のです。そしてその門をくぐった後の次のレースの期間がいつまで続くか分からないことが「怖い」のです。

いずれ、寝たきりになり瞼も開けられなくなります。外から見る僕はまるで眠っているよう。でも僕は起きていて何かを叫んでいる。でもその言葉が口から出せることはない。僕は「死」んでいるのではなく「生」きているのに。
その寝たきりや暗闇の世界は、全部まとめて一度に一瞬に背負わされるのではなく、それぞれ背負わされる順番も重さも違う。もうそのレースは始まっていて、息が苦しい、指が届かない、それを少しずつ味合わされてきました。そして、これからもずっと見て感じ思い知らされる。その生き方しか選べないことが悔しいのです。

命の「死」が怖い。でもその前にも身体の「死」がくる。あぁ今日も腕が上がらず、昨日よりも指も動かなくなってきたねと、この先のたくさんの「ゴール」(命の死ではなく、身体の停止)、そして次の「ゴール」(身体の完全な静止)、が見えてきたことが怖いのです。
そしてそのゴールをくぐってしまったら、次の「命の死」まで僕はどう暗闇の中で生きればいいのかが分からないのです。介助してくれる方に「ありがとう」と言えないことに耐えられない、いつかのブログにそう書きました。その気持ちは正直な自分であって、疲弊してゆく介助者が可哀想でならない。だから気管切開はしないと決めました。身勝手ですけれど。自分の意思で生死を選べる内に、僕は自分の光を消そうと決めています。

でも、だから命の「死」が怖いのではなく、毎日のほんの些細な身体の静止が怖いのです。ここで腕や指が止まったら・・・、まだ話せるから何とかなるか・・・。次は言葉が話せなくなったら・・・、まだ目が見えるから何とかなるか・・・。そういうレールの上しか進めないことが嫌で仕方ありません。

いくつか映画を紹介しましょう。

ホーキング
「ホーキング」

とらわれて夏
「とらわれて夏」

ウォールフラワー
「ウォールフラワー」

イントゥ・ザ・ワイルド
「イントゥ・ザ・ワイルド」

僕が星になるまえに
「僕が星になるまえに」

DVDをワーっと借りて観る時間もなく、忘れていたりしますが、思いついて、一気に何本も観たりします。情緒を偏って揺さぶるのは良くないのでしょうけれど、何かを考えることは悪くない。
いつか書いたブログの記事と同じ内容のものを、今日また言葉を変えて綴っただけかも知れません。でも、時間は進んでいます。僕も、少しずつでも前へ進んでいればいいなと思います。何処へかは、まだわかりませんけれど・・・。

「生き方」というものを考えることが、この病気と付き合える何かのヒントになりそうな気がします。
泣きの一発入をれたので、また次回からは普通のブログ(そういう言い方も変ですけれど・・・)に戻りましょう。
いやあ、長かった。失礼しました。

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