2013.1.9 轍(わだち)

新年、元日には何かしら想いをブログに残そうと思っていましたが、もうすっかり年は明けちゃいました。・・・どうもキーを叩くことが辛くて。でも、ちゃんと轍(わだち)は残さないと。
時には今の自分の真横に道標を立てることは必要で、ちゃんと立ち止まって、今日まで歩いてきた道を振り返って、自分の後ろにはどんな轍が出来ていたのだろう、そしてここをスタートとしていったい何処へ向かって行くのだろうかと、そんなことをたまには考えなくては。ちゃんと立ち止まって・・・。

この病を患ってからもう何年も過ぎました。元気だった頃の自分と今の自分を比べると、僕自身とはいったいどんな人間なのだろうかと分からなくなってしまいます。
窓辺の机の端っこには小さな鉢に入ったガーデンシクラメンがあって、薄紫色の小さな花を咲かせています。水を与えると小さな可愛い花が幾つも咲きますが、でもしばらく何もしないとそれぞれの花は頭を垂れて、元気もなく萎んでしまう。

散り往く花の姿は美しいけれど、最初から枯れる為に生まれてくる花なんていない。
本当の自分とは、感情に素直に従うべきなのか、出来る限り感情を押し殺して自分を隠して生きるべきなのか、何が自分らしいのだろう。そんな線引きなんて必要ないのですけれど、でもね、きっともうあまり時間がありませんし、出来れば耳に届き、目にする世界も穏やかであって欲しい。

先回の「消耗と混沌と充電と」でも書き残していたことですが、僕は混沌としています。
自分では何も出来なくなってから一層思うことです。誰かが誰かをなじり、過ちをとがめ、自分の正当性を押し付ける。決して横に並び、声を掛け、手を差し出すことはしない。何回も言ったのにまだ出来ないと怒る。そんな話をよく聞きます。
それはこちらの感情じゃないか。何回言っても分かっていない、と腹をたてるのはこちら側の我慢のなさであって、こちら側の勝手な都合。100回言わないと分からないのであれば100回教えてあげればいいのに。
そう言う僕の轍も、まだまだ小さくて浅くて消えそうなのだろうな。

分厚いコート脱いで、胸の窓を開けたら自分の心が覗けますかね。破れた心に接ぎをあてれば、少しは我慢強く、少しは優しくなれるでしょうか。ここに道標をたてて。
確かなものを見つける日まで、コンニチハ、サヨウナラ、その繰り返しですものね。
今年も宜しくお願い致します。

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