2009.12.27 縁(えん)

以前、「縁(えん)」という言葉に思い入れがある、みたいなことを書きました。
「経験」という言葉と同じように、僕にとっては大切なテーマであると。ちょっとやそっとでは書き切れないほど本当に重要なテーマなのですが、今日は少し書き現してみたいと思います。

長い人生を生きて行く中で、人はたくさんの出会いをします。両親の下に生まれ落ち、初めて人間の顔を知ります。育てられながら自分の環境を知ります。望んでいてもいなくても、学校で沢山の友達に出会い、社会へ出てからも、多くの人たちとの出会いを繰り返します。
その中で、親友と言える友に出会える人もいれば、恨みを抱く人と出会う人もいます。ライバルとして知り合えた仲間もいれば、ただすれ違うだけの人もいます。

僕はずっと、人と人との繋がりは円と円が交わる時に出来る集合体のようなものだと思っていました。くるくる回る自分の人生の円と、誰かの円が触れて交わる時に出会いがあるのだと。
その交わりの部分は僕の一部でもあるし、もちろん相手の円の一部でもあります。お互いの持ち分の円の中で交わっているので、気持ちが良いし、安心しているわけです。その集合体の中に、親友や恋人がいるわけですね。まだ出会ってない人や、あまり好きでない人は、自分の人生の円には触れることなく、他でくるくる回っている。決して自分の円とは交わらないのです。

誰もみな、ひとりになりたい時があります。疲れて休みたいときに。その時はくるくる回って自分の円の反対側に来ます。誰かと交わっている円の集合体に顔を出すのではなく、そこからくるくる回って誰とも交わって居ない円の反対側で休むのです。
僕は人生や出会いを、こういう円と円の交わりで出来ているのだと思っていました。
でも、実はもっと深かったのです。円の反対側にいれば誰とも会わずに一人になれる、休むことができる、そう思っていましたが、人生ではそんなことは有り得ない。たったひとりきりの時間など、どこにもないのです。確かにベッドで横になるときはひとりきりですが、でも誰かがきっと僕のことを思っていますし、考えています。出会った全ての人がみんな同じ時間に、僕のことを忘れるなんてことは有り得ない。良くても悪くても僕は誰かに影響を与えている、心配を掛けている、迷惑を掛けている。自分がベッドで休んでいても、どこかで誰かが、僕のことを心配し悩んでいるかも知れない。僕を恨み眠られない夜を過ごしているかも知れない。

自分の円をくるくると回り、都合よく反対側で休むなんてことは出来ないのです。
人と人との繋がりは、円ではなく、球体と球体の交わりでした。球体は自分の意志には関係なくあらゆる方向へくるくると回ります。円なら進むか戻るかなのに、球体は前にも後ろにも、横にも上にも回ります。
その球体どうしが交わった部分で笑い、ホッとし、自分の生き様を確認し、この星に生まれ落ちた意味や理由を見つけ、友や恋人と同じ球体の交わりを喜びます。

でも、球体は自分に都合の良いことばかりではありません。疲れて休もうとして、球体の裏側へ回っても、球体は自分の意思とは関係なしに、またくるっと回り、顔を出します。僕は休んでいるつもりでいても、知らず知らずのうちに誰かを傷つけているかもしれません。そして、どんなに逃げ回っても、知らず知らずのうちに誰かに傷付けられるかも知れません。とげのない人たちとばかり肩を組み、自分の世界の中で生きて行こうと思っていても、とげとげばかりの誰かと触れることもあるでしょう。

そこに「縁(えん)」というものが存在するのです。縁は自分の考えではどうしようもありません。人との出会いが偶然であっても、そこには縁が存在します。球体は自分の知らないところでもくるくると回り、色んな人の球体にくっついて触れ合います。
悩み、苦しみ、ため息をつき、途方に暮れ、出来れば膝を抱えて誰にも会わず、じっとうずくまって暮らしていきたいと思うときがあります。でも、喜び、希望を持ち、明日を夢見て、誰かと笑顔を交わしたいと思うときもあります。
縁なのです。人生が自分の力ではコントロールできない球体の触れ合いならば、どこで回り、どこで顔を出し、どこで誰の球体と触れ合うかは、縁なのです。(つづく)

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